ガソリン税をめぐる、国会の平河クラブでの喧噪にもうんざりしてきたので、「あそこ」に行こうと思い立った。東京・平河町の弁慶橋を渡って、右に赤坂プリンス(現グランドプリンスホテル赤坂)、左にホテルニューオータニを見ながら歩いていくと、右手に「フカヒレの煮込み」で有名な一軒建ての中華料理店がある。その脇の路地を入っていくと茶色の重厚な石造りの、その建物はある。かつては小沢氏らが新たな政策集団と称していわゆる羽田派の「改革フォーラム21」を旗揚げし、自民党を離党して「新生党」を結成し、そして「新進党」に至るまで、拠点にしていた建物だ。
当時、担当だった私は毎日ここに通い詰めたのだ。もう、あの頃の事務所はなくなっていて、外国の名前のオフィス事務所になっていた。エレベーターの前をうろうろしていたら、扉の向こうからとがめるように「どなたですか」と声を掛けられ、あわてて「間違えました。すみません」と言い残してその場を去った。路地を歩きながら思い出すのは、そう、その宮沢内閣不信任案の可決と、衆議院解散総選挙の本会議の間の出来事だった。あの夜「2時間」のこと・・・。
衆参両院30人を超えるグループ議員をその事務所に集めて、小沢氏の「個人面談」は進んでいた。要は「自民党を出れるのか」。しかし、夜の10時の解散の本会議を前に、その作業も時間切れとなり、みんな慌ただしく国会へとクルマで向かった。もちろん、事務所につめていた私は、ことの状況を聞こうと、小沢氏側近ナンバー1の中西啓介衆議院議員のクルマに狙いを付けて「乗っていいですかあ」と声を掛けると、興奮気味の中西氏も「おう」と応じてくれ、わたしも後部座席にすべり込んだ。そして、さあって何から切り出そうかと思案してると、動き出したクルマのドアをたたいて「ちょっとええかあ」と、前の助手席にグループ幹部の石井一衆院議員が乗ってきたのだ、。そして体をねじるようにして後ろを見ると、「どうしたらええんや」と中西氏の可ををのぞき込んだ。要は、まだ、羽田派の「腹」が決まる前で、そのタイミングでの武村氏らの「新党さきがけ」結党表明は、それほど「想定外」のことだったのだ。聞かれた中西氏は「おまはんどうおもう」と話を回してきたので、私はとっさに「武村氏らは野党の不信任案に反対して離党するのですから、賛成した羽田派は離党しか道はないですよね。ならば、今日ならまだ、明日の新聞で『さきがけ』と同着になります。明日以降にやることは全て今日やるべきでないでしょうか」と思いつくまま口にしていた。他にもいろいろ事情があったのだろう、中西氏は腹を決めたふうだったが、石井氏は「恒三さん、ついてきてくれるかなあ」などと、なおも思案気だった。記憶は、昨日のことようによみがえった。
坂を下りながら我に返ると、昼下がりのゆっくりとしたランチで「フカヒレの煮込み」を食べたのだろうか。着飾った女の人達が「おいしかったわねえ」などと言い合いながら甘酸っぱい香水の匂いをあたりに振りまきながら脇を通り過ぎていくところだった。私は打ち合わせの電話のやりとりで、武村氏が言っていたことを思い出していた。「テレビでは多分言えないだろうけど、自民党はもはや歴史の中でその役割を終えていると思うんですよ。民主党よりも、自民党が割れる方が、歴史的な意味があるのと思うのですよ」。きっと、もう始まっているのだろう。15年前の「あの時」も、この坂にいた私の知らないところで始まっていたように。
※本原稿は新・調査情報3〜4月号に掲載されています。
◆石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

|
御厨:武村さんのDNAを引き継いでる方々も水面下で動いている感じですかね?
武村:民主党はしかし、次の衆議院にみんな掛けようという気持ちが強いですからね。あの政策では色々意見の対立はあっても党を割る動きは恐らく民主党の方には無いんだろうと僕は思いますよ。
御厨:そうすると自民が割れる?
武村:自民が割れるなら割れる。割れないかもしれませんが。いずれにして衆議院の後は色んな変化が可能性としてあるのかもしれません。そういう意味では再編の可能性っていうのは選挙後、期待するしない係わらず、起こる可能性が両方にも多分にあるなと。