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過去の放送 出演者 時事放談「サロン」 テレビプロデューサーの日々
 
 

「あの日」の新聞のドキュメントを読むと今でも興奮がよみがえる。93年6月18日の話だ。5:45羽田派の総会で羽田氏が挨拶「政治改革実現のために頑張ってきたが、ここまでくると内閣不信任案を採決しないと政治改革は前進しない」5:50羽田派の総会が終わる。事務所を出た渡部恒三前通産大臣は「全員一致で賛成票を投じる。今の執行部に除名されてもしかたがない」7:58宮沢内閣不信任案への記名投票が始まる。8:16投票が終わり「投票総数475。可とする者白票255。否とするもの青票220」。桜内議長が「宮沢内閣不信任案は可決されました」。宮沢首相は口を固く一文字に結び議場に一礼。

要は、自民党最大派閥の竹下派が分裂し、羽田孜氏をかついで小沢一郎氏が率いる羽田派が、宮沢内閣に対する野党の内閣不信任案に賛成して、可決されるという前代未聞の出来事なのだが、それはその後の「異変」の序章でしかない。ここで、不信任案に賛成するに至る事態の中でも、渡部氏が「除名されても・・・」と、あいまいな言い方を残しているのがミソなのだ。まだ、羽田派は「離党」→「新党結成」への意思統一ができていなかったのだ。ここで、ある出来事が、歴史の歯車を「カタリ」と動かす。内閣不信任案が可決された後、宮沢氏が解散に打って出て対抗することになるのだが、その解散の本会議までの出来事なのだ。わずか、2時間ほどの間なのだが、狙いすましたように、「仕掛け」がはじけるのだ。

9:05赤坂の事務所で開かれた三塚派臨時総会は、武村正義氏同派の4代議士の離党の動きを知って騒然。「話は昨日聞いた。党人として最後は内閣不信任案に反対票を投じたのは立派だ。また、一緒になることもあるだろう」と、三塚博会長。9:10武村正義代議士ら自民党の当選1、2回の代議士10人が東京・虎ノ門のホテルで離党声明を発表。9:56宮沢首相が官邸を出る際に記者団の質問に「えっ。ほんと」10:02河野官房長官が紫のふくさに包んだ解散詔書を黒塗りの盆に載せて衆院本会議場に入る。

羽田派の動きに目を取られている裏で、武村氏らは「不信任案に反対しながら、一気に自民党を離党する」との挙に出る。スタジオで、武村氏はどこか懐かしむように、緊迫した当時を振り返った。

御厨:「新党さきがけ」結成で一番気を付けられて事はなんでしょう?

武村:新党というのは久しぶりでしたからですね。当時、自民党は政権党で、それなりにがっちりした組織でしたからね。ここを出るというのは「容易ではない」と思いました。明治維新の脱藩もそうだったかもしれませんが、とにかく出る相談を10名でやっていながらこの話が漏れたら、どっかから漏れたら一気に潰される。誰かが怖い人が潰すんじゃなしに、マスコミに知れて報道になれば、有権者をみんな抱えてますよね。後援会10万、15万の。そこから心配して「そんな事止めろ」という圧力が掛かりますしね。だから結局、変な話、情報非公開が一番、こういう密かに相談をして事を決するためには情報が漏れるか漏れないかが全て、非常に大事だということを痛感しました。

その大胆な発想と行動で戦後10本の指に入ると言われる武村氏の真骨頂はここにある。リクルート事件で政治への不信感が国民の間に充満する中、武村氏は自民党にありながら、見込みのありそうな若手議員に目を付け、半年を掛けて一人、また一人と声を掛けていく。「ユートピア研究会」と銘打ったこのグループは表向きの活動とは別に、「その時」に向けて人知れず、しかも確実に準備を進めていた。秘密結社のように・・・。

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