◆「本音と現実の乖離が」 寺島実郎氏(2007年9月16日)
みんなが本会議の議席に着いた後、「その男」はそうっとやってきた。ついこの間まで、世界の1割国家の、この国のリーダーとして「突っ張って」きた男だ。でも、その姿には、「戦後レジーム」がどうとかかんとか…。「教育の再生」がどうとかかんとか…。「再チャレンジ」がとか…その突っ張りは、もう何も残っていなかった。席に着くと「その男」は、席の上にある投票用紙に気が付いて、書き込んだ。確認のしようもないが多分「福田康夫」と書いたのだろう。でも、前屈みの、その書く姿は、どこか「小学生の書き方教室」の姿のようで。必要以上に丁寧なのだ…。少しかなしくなった。加藤紘一氏は、その「最後の姿」を振り返った。
◆「小さく見えた」 加藤紘一氏(2007年9月18日)
クライマックスは最後に来た。「続投」を進言した(もしくは順当なる後継を期待していた)麻生太郎氏が首相指名の投票を終えて、その席に、近づいた時だった。それまで、席に立ち寄る自民党議員に、座りながらで、おざなりに握手をしていた「その男」はこの時だけは立ち上がって、申し訳なさそうに両手をさしだし握手を求めたのだ。でも、その相手の麻生氏は口を曲げながら軽い笑顔で、そのまま座るように促すと、「その男」は崩れるように席に座った。「その男」にとって大切なことも、もはやここでは「どうでもいいこと」なのだろう。そして、投票が終わり、福田新総理が立ち上がり、そちらに向けて、激しくカメラのフラッシュがたかれると、その「男」は、力無く拍手を送った…。
●「さあ、『次』が始まったのだ」
その6日後、今度は本会議場の演壇に「次の総理」である福田総理が所信表明演説に、上ずった声を張り上げた。「老いも若きも、大企業も中小企業も、そして都市も地方も、自助努力を基本としながらも、お互いに尊重し合い、支え助け合うことが必要であるとの考えの下、温もりのある政治を行ってまいります。その先に、若者が明日に希望を持ち、お年寄りが安心できる、『希望と安心』の国があるものと私は信じます」。さあ、始まったのだ。「小泉政治」への2人目のチャレンジャーの登場だ。「小泉」を乗り越えられるのか。それとも、また、「あの男」のように敗れるのか…。
本会議場には拍手とヤジがあふれかえっていた。最後の列に座っていた小泉氏は、福田総理がひな壇の裏にある扉から興奮気味に肩を揺するようにして出て行くのをじっと見つめていた。そして、机の上に置いた両手で自らの上体を突き上げるようにしてぐいと立ち上がり、議場出口の自民党議員の渦の中に消えていった。「次」が始まったのだ。
※本原稿は新・調査情報11〜12月号に掲載されています。
◆石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

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というのは、たとえば安倍さんっていう方の本音っていうのはたとえば「主張する外交」でね、近隣の国には強面でですね、なめられたくないっていうね。拉致なんていうことをてこ一気に国民的な人気をえて、登場してこれれた。ところが実際に行動としてやらざるを得なかったのがやはり凍りついた中国との関係の打開っれことで、「氷を溶かす旅」なんて向こう側から言われてるくらいですね、本音とは違う行動でもって踏み切らざるをえなかったんですね。
それから「戦後レジームからの脱却」ってことを華々しく掲げておられたんですれども、教育再生だとか憲法改正まで持ち出してきてね、戦後っていうのに抱えている問題に対してむしろ否定的な文脈で戦後っていうのをとらえてね、問題提起しようっていう試みをやろうとされたんだけれども、例えば地域の参画だとか、民主化っていう流れの大きな潮流っていうのがね定着してるっていう中で、その「戦後レジームからの脱却」って言葉が非常に空疎になってってね、で、そういうものが本音と現実の乖離が起こってストレスが非常に高じてったっていうかですね、思うに任せぬ状況に追い込まれていったんじゃないかとおもいますね。