特集

2018年10月7日「コトルの自然と歴史地域」

最強の要塞!美しい港町のもうひとつの姿

コトルの街は、アドリア海の北の端にあるイタリアのヴェネツィアの影響を大きく受けて発展しました。良港を備えたコトルは航海の中継地として重要な位置にあり、中世に繁栄した水の都ヴェネツィアは、コトルを支配下に置いていたのです。この港町を巡ってヴェネツィアは、近隣の大国、オスマン帝国と争っていました。

──コトルをヴェネツィアが支配していたのは、いつ頃のことでしょうか?

田口:ヴェネツィア共和国がコトルを支配下に置いたのは15世紀からです。アドリア海からの交易路を延ばしていたヴェネツィアにとって、コトルは、たいへん都合のいい中継の港だったのです。ただし、この港町を拠点としたいと考えていたのはヴェネツィアだけではありませんでした。当時、今のトルコを中心に大勢力を誇っていたオスマン帝国もそのひとつです。実際、オスマン帝国はコトルを手に入れようと何度も襲撃してきました。大勢力で押し寄せたこともありましたが、コトルは何度もそれを撃退しています。

コトルを支配下に置いていたヴェネツィアは、オスマン帝国の侵入を防ぐため、街を要塞化しました。コトル旧市街の海に面した側には高い城壁がそびえ立ち、外敵の侵入を防いでいます。ヴェネツィアのシンボルである翼のあるライオンのレリーフが刻まれています。

──コトルの街がオスマン帝国を撃退できたのはなぜでしょう?

田口:ヴェネツィアはコトルを守るために、街を鉄壁の要塞都市に仕立てたんです。旧市街を囲んでいる高い城壁はそのためのものなんです。街には門を通らないと入れない上、武器を持ち込むことは禁止されていました。しかも門の手前は橋になっていて、夜間は跳ね上げて通れないようにしていました。現在はもちろん通れるようになっていますが、今でも旧市街の中には自動車は入れません。

旧市街の南門。かつては門の手前が跳ね橋になっていて、夜間は橋が跳ね上げられていました。

──なるほど、コトルの美しい風景の影には、要塞としてのもうひとつの姿があるんですね。

田口:それだけではありません。コトルは、地理的にも守りやすい場所にありました。背後が断崖となっているので、陸路で近づくのが難しい場所にあります。しかも旧市街を囲む城壁は、実は街の背後の山に続いていて、全長5キロにも及ぶ長い壁が急な斜面をうねるように続いているんです。城壁には、海に向かって開けられた無数の穴があり、そこから銃や弓を放つことができるようになっていました。要所には、砦や砲台も造られていました。

コトルの背後にある岩壁にも城壁が続いていました。要所には砦も建設されています。城壁の全長は5キロにも及びます。

城壁には無数の穴が空いており、銃や弓で敵を狙うことができました。穴は縦長で手前側には左右のスペースがあり、上下左右に狙いを定めることができました。

──では最後に、番組の見どころをあらためてお願いします。

田口:はい。モンテネグロには私も初めて訪れたのですが、こんな場所に変わった地形を持つ入り江があり、このような歴史を持つ美しい街があるということに驚きました。そして観光地としてもすばらしい場所で、実は個人的にもまた訪れたいと思っているほどです。休暇をゆったりと過ごすには最高の場所だと思います。穏やかな海、旧市街の石造りの建物や城壁、その背後にそびえる岩壁など、特徴的な風景を4Kカメラでたっぷりと撮影してきました。アドリア海の秘宝の魅力を美しい映像でご覧ください。

コトルはヨーロッパでは有名な観光名所。入り江には観光客を乗せた大型客船が停泊しています。自然が生み出した良港を備えるアドリア海の秘宝は、今も人々を乗せた船が集まってくる場所でした。