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2017年3月5日放送「ワルシャワ歴史地区」

観光地としても人気のワルシャワ旧市街。広場には屋台が並び、大勢の観光客が行き交う美しい街並みです。しかし戦時中、ナチス・ドイツによってほとんどがガレキと化してしまったのです。失った街は自分たちの手で取り戻す──ワルシャワ歴史地区は、市民によって復元された街でした。その驚きの復活劇を取材した石渡ディレクターに、話を聞きました。

命がけで守られた3万5000枚のスケッチ

ポーランド人の心のよりどころであった、ワルシャワの旧市街。戦時中、ナチス・ドイツによって徹底的に破壊されてしまいました。しかし、旧市街は戦後、瞬く間によみがえります。この街の復元を支えたのは、命がけで守られてきた大量のスケッチでした。

──今回はポーランドの首都、ワルシャワですね。まずはどのような世界遺産なのか教えてください。

石渡ティレクター(以下、石渡):はい。今回紹介するのはワルシャワの旧市街です。ただし、一般的なヨーロッパの旧市街とは異なり、中世に建設された街並みがそのまま残っているわけではありません。本来の旧市街は、戦時中に破壊されてしまったのです。ワルシャワ歴史地区は、そこから復元された街として世界遺産に登録されたのです。

観光客で賑わうワルシャワ旧市街。街をまるごと復元しようとして成し遂げた、ワルシャワ市民の熱意が認められて世界遺産に登録されました。

──復元された街が世界遺産に登録されたというのは、珍しいですね。破壊される前のワルシャワは、どういう街だったのですか?

石渡:ワルシャワは、かつて「北のパリ」と言われた文化・芸術の街で、17世紀初頭からポーランドの首都になりました。若き日のショパンやキュリー夫人が、パリに出る前に暮らしていたところでもあります。中世ヨーロッパの美しい町並みの旧市街があり、中心の広場は活気のあるマーケットになっていました。

──美しい街だったのですね。ワルシャワの街が破壊されたのは、どういう経緯だったのでしょうか?

石渡:旧市街が破壊されたのは、第二次世界大戦中の1944年、ナチス・ドイツに支配されていた時に起きた、ワルシャワ蜂起の後です。これは、ポーランド市民による武装蜂起でした。ナチス・ドイツはその報復として、ワルシャワを撤退する際にポーランド人の心のよりどころでもあるワルシャワの街を徹底的に破壊しました。その結果、旧市街の85%以上がガレキと化してしまったのです。

ワルシャワ蜂起の際、蜂起軍は旧市街にある130年前に造られた地下水道に潜みました。地下には今でも当時の地下水道が残されています。石渡ディレクターがマンホールから入っていきます。

──徹底的に破壊することで、ポーランドの人々を心理的にも攻撃しようとしたのですね。

石渡:そうですね。現地で、実際にワルシャワ蜂起に参加した方に会うことができました。蜂起軍は旧市街の一角に陣を張り、兵士や市民の避難場所や伝令を伝えるための通路として地下水道を利用したそうです。彼に蜂起軍が使っていた地下水道に案内してもらい、特別に許可をもらって中を撮影させてもらいました。地下水道が最初に作られたのは19世紀のことで、今でも当時のレンガ造りのままで残されていました。這うようにして通らなければならない狭い場所もあって、行き来するのはたいへんだったと思います。

街の建物を再建する際、可能な限り残された壁やレンガを使いました。そうして再利用された壁には、銃弾の痕が生々しく残されています。

──そんなところに、戦前のワルシャワが残されていたのですね。一方の地上の建物ですが、破壊された後、どのようにして復元されたのでしょうか?

石渡:旧市街の再建は、「意図的に破壊されたものは、意図と目的を持って再興する」という市民の強い信念の元、戦後すぐに始まりました。工事は、市民のカンパとボランティアによって支えられていました。何と作業が始まって3年くらいでほとんどの建物が復活し、最終的に丸ごと復元してしまったそうです。

ワルシャワ工科大学の学生達が残した3万5000枚にも及ぶ建物の図面。壁の装飾や建物内の階段の構造のほか、中には実寸大で記録されたスケッチもありました。

──ほとんど破壊された街が、どうしてそのようにスムーズに再建できたのですか?

石渡:理由のひとつは、市民が一丸となって復興しようとしたからだと思います。そして忠実に再現できた理由は、街の建物などの図面やスケッチが大量に保管してあったからなのです。それは、ワルシャワ工科大学建築学科の学生達が描き残したもので、その数は3万5000枚にも及びます。壁の装飾や絵など、細かな部分も描き残されていて、寸法なども記録されていました。

図面のとおりに再現された建物の装飾。命がけで守られてきたスケッチがあったからこそ、戦前のままに街を復元することができたのです。

──それはすごい量の資料ですね。そのような図面が、なぜ残されていたのでしょうか?

石渡:1939年、ナチス・ドイツによる占領を予見した大学の先生が、学生達と協力して描き残し、隠していたものです。ワルシャワの街の姿を絶対に記録に残すのだという、強い熱意を感じました。ナチス・ドイツに見つからないようにこれだけの大量の図面を隠しておくのは、命がけのことだったと思います。そのおかげで、今の美しいワルシャワの旧市街の姿があるのです。