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2017年2月5日放送「沖縄に450年!海が生んだ王国」

琉球王国

現在では、日本を代表する南国リゾートとしてのイメージが強い沖縄。そこには、15世紀に成立し、その後450年にわたって独立国として歴史を刻んだ琉球王国がありました。他では見られない独自の文化があり、それは今も脈々と受け継がれているのです。取材する中で沖縄の新しい一面を目にした小澤ディレクターに、話を聞かせてもらいました。

潜入!床下にあった本物の首里城

琉球王国を象徴する建造物、城(グスク)。沖縄の各所にその跡が残されており、その数は300以上にも及びます。そこには、他の日本の城にはない独自の工夫がありました。そして琉球王国の王宮であった首里城の本当の姿に近づきます。

──今回は沖縄ですね。番組に登場する世界遺産を教えてください。

小澤ディレクター(以下、小澤):今回取り上げるのは、「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」です。沖縄本島の9つの場所が世界遺産に登録されています。その中でも重要な、首里城跡と3つのグスク、斎場御嶽(せーふぁうたき)を中心に紹介します。

今帰仁城跡(左)と中城城跡(右)。いずれの石垣も、戦国時代の日本の城の石垣とは異なり、波打ったような曲線になっていることが分かります。死角を減らすのが目的だと言われています。

──グスクとはどんな建造物なのですか?

小澤:グスクは、沖縄に建てられていた城塞です。各地に造られており、約300カ所以上のグスク跡が残されています。作りや規模は様々ですが、石を積み上げて造られた石垣の城壁が特徴的です。城壁には、サンゴが堆積してできた琉球石灰岩が使われています。

勝連城跡(左)の石垣は直方体に削られていますが、中城城跡(右)の石垣は、石が多面体に削られていて、より強固に組み上げられています。

──サンゴですか、沖縄らしいですね。石垣がある城というと、戦国時代の日本の城と共通しているようですが、同じような作りなのでしょうか?

小澤:石垣であるという点ではそうですが、グスクの城壁は日本の戦国時代の城とは異なります。戦国時代の城の石垣は端がまっすぐになるように組み上げられているのに対して、グスクの城壁は波のような曲線になっているのです。曲線のほうが死角が少なく見渡しやすいというメリットがあったようです。さらに、時代も異なります。古いものは13世紀ころに作られていて、戦国時代よりもはるか昔に石垣の高度な建造技術があったことが分かります。それも、世界遺産に登録された理由のひとつと言えます。なお、グスクの城壁は、建設された時代によって建造技術も進化しています。初期の頃は自然石を積み上げるだけだったのですが、その後は石を直方体に削って組み合わせるようになり、さらにその後の時代には、より複雑な多面形に変化していきます。このほうが、より強固に組み上がって安定するのです。

鮮やかな赤い正殿が目を引く現在の首里城は、戦後に再建された建物です。石垣も含めたほとんどの部分が、戦火で消失してしまいました。

──さまざまな工夫が施されているのですね。そんなグスクの代表格である、首里城について教えてください。

小澤:首里城は、琉球王国時代の王宮だったグスクです。琉球王朝は、1429年に琉球を統一して、それ以降1879年まで続きました。ほんの140年ほど前までには、存在していたわけです。首里城には、龍が至る所にあしらわれています。龍は中国で王を示しています。また、首里城のそばにある王家の庭園、識名園は、中国からの使節を接待するための場所でした。このように、琉球王国は日本よりも中国との関係が深かったことがうかがえます。なお、世界遺産に登録されているのは「首里城跡」で、今建っている首里城は再建されたものです。

中国では古来、龍は王を示します。琉球王国時代の王宮であった首里城には、玉座にはもちろん、屋根や柱の飾りなど、龍が様々なところにあしらわれています。

──以前の首里城は、なぜ残っていないのですか?

小澤:首里城は、戦時中にほとんどが破壊されてしまいました。特に首里城の地下には日本軍の司令部が建設されていて、米軍から攻撃目標にされていたのです。終戦時に本物の首里城は基礎部分しか残っていませんでしたが、平成になってからその上に建物を復元したのです。今回は特別に許可をもらって首里城の床下に潜り、一般の観光客は入れない場所から本来の首里城跡を間近で撮影しました。

本物の首里城は、基礎部分だけが残されていました。間近で撮影するため、ヘルメットをかぶり、小澤ディレクターが首里城の床下に潜ります。