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放送20周年スペシャル「巨大帝国の首都・ローマ 1・2」7月24日、31日 2週連続放送

Roma

ローマの大動脈、テヴェレ川を行く

地中海を囲むローマ帝国には広範囲にわたる交易のネットワークが組まれ、各地からさまざまなものが集まってきました。ヨーロッパはもちろん、アフリカからも、食料や珍しい動物、果てはエジプトの巨大なオベリスクまで運ばれてきたのです。その流通の要となったのが、ローマ市内を流れるテヴェレ川です。

──2回にわたってのローマ帝国のスペシャルですが、第2回の放送はどういった内容になりますか?

古賀:ローマ帝国がいかに安定した豊かな国であったかは、当時の交易の痕跡を見ることでも分かります。首都ローマには実に多彩な文化が集まり、さまざまな商品も流通していました。その流通の大動脈となったのがローマ市内を流れるテヴェレ川です。第2回目の放送は、ローマ帝国の繁栄を支えたテヴェレ川周辺でローマ時代の痕跡を追いました。

テベレ川のほとりにある港湾都市オスティア・アンティーカは、首都ローマの重要な交易拠点でした。

──船に乗せられて、さまざまなものがローマに運ばれてきたわけですね。

古賀:そうです。その首都ローマと地中海をつないでいた港湾都市が、紀元前4世紀から600年にわたって繁栄したオスティア・アンティーカです。ここは、首都ローマを支える重要な中継地でした。

──オスティアが重要な街であることは、どんなことから分かったのでしょうか?

古賀:ひとつは街の規模が大きかったことですが、さらに広場の床に描かれたモザイク画にヒントがありました。そこには、魚や船、ゾウなどの動物、小麦などを計測する様子などが描かれています。これらはすべて、業種を示していました。今で言う商工会議所があった名残と考えられます。中にはどう猛な獣の絵も描かれており、コロッセオの「猛獣狩り」に利用される動物も、オスティアを介してローマに運ばれていたと考えられています。

オスティアの広場の床には、業種や交易で取り扱っていた商品を示すモザイク画が残されていました。今で言う商工会議所の跡地です。

──つまり、看板が描かれていたわけですね。それらは、どこの都市と交易していた商品なのでしょうか?

古賀:その広場には、ナルボンヌ、カルタゴ(現在のチュニジア)といった各都市の名前が入った看板もあります。つまり、交易していた地域の出張所が設けられていたのです。動物や食料は、主にアフリカ大陸から送られていました。

──多彩な商品が取引され、多くの人々が行き交っていた様子がうかがえます。

古賀:ローマ市内には、ほかにも活発な交易があったことを示す巨大な証拠がありました。街中に突如現れる、高さ40mほどの丘です。普段は立ち入れない場所なのですが、許可をもらって登ってみると、足下には陶器の破片が散乱していました。実はこの丘がすべて、アンフォラという陶器の壺の欠片でできていたのです。

ローマの市街地に忽然と姿を現すアンフォラの丘。この丘すべてが陶器の破片でできているのです。300年かけて積み上げられました。

──丘がすべて欠片ということは、ものすごい量ですね。どうして陶器の破片で丘ができてしまったのでしょうか?

古賀:アンフォラは当時、オリーブオイルやワイン、魚醤などの交易品を入れて運ぶための素焼きの壺でした。アンフォラ自体は安価なもので、使い捨てにされていたのです。300年の長きにわたって廃棄され続けた結果、それが大きな丘になってしまったというわけです。ローマに地中海全域から大量の物資が持ち込まれ、そこに暮らす人々がいかに豊かな生活を享受していたのかが分かる痕跡です。

丘の断層を見ると破片はきちんと積み上げられていることが分かります。破片を集めてアンフォラを再現してみると、内容量や生産者といったデータが決まった位置に書かれていました。

──テヴェレ川がまさにローマの大動脈だったわけですね。

古賀:テヴェレ川では、実はとんでもないものも運ばれていました。ローマ時代には一大エジプトブームがありました。エジプトを制圧し、エジプトの文化に触れた古代ローマ人がすっかりエジプトかぶれになったのです。古代エジプトの象徴とも言える巨大な石柱、オベリスクをわざわざローマに持って帰ったり、ローマの街の中に大きなピラミッドを造ってしまったりしたほどです。

エジプトからわざわざ運ばれてきた巨大なオベリスクと、ローマ市内に造られたピラミッド。古代ローマのエジプトかぶれの程が、うかがい知れます。

──運ぼうとしたこと自体にも驚きますが、実際に成し遂げてしまうのはすごいですね。

古賀:各地の巡礼者を受け入れる玄関口でもあったポポロ広場には、アウグストゥス帝が運んできた高さ24mのオベリスクが立っています。重さは何と数百トンもあります。オベリスクの数は、今や本家のエジプトよりもローマのほうが多いというのですから、古代ローマのエジプト好きは相当なものですね。