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東京・東村山市の「国立ハンセン病資料館」 |
国の誤った政策で、ハンセン病は怖い病気だという誤解と偏見が生まれ、元患者の方達は治る病気になってからも、隔離され続けてきました。6年前に当時の小泉政権が国の誤りを認め、謝罪しましたが、その時の約束の一つが「ハンセン病資料館の充実」です。資料館は東京・東村山市のハンセン病療養所「多摩全生園」の隣にありましたが、増築されて、2007年の4月、あらためて「国立ハンセン病資料館」としてオープンしました。
新しい資料館は、図書館が大きくなり、資料検索などもしやすくなりました。またハンセン病の歴史や療養所の生活についての展示は、パネルや展示品だけでなく、映像や音声でも触れることができます。
野口太陽記者が取材したのはオープンからちょうど半年、9月の終わり頃で、入館者数が1万人を越えたところ。取材した日は地元、東村山市の八坂小学校の6年生が先生に引率され、学校から1時間歩いて来ました。
生徒たちはまず、全生園の元自治会長、平沢保治さんの話を聞きました。80歳になる平沢さんは14歳の時、全生園に入れられました。法律が廃止され、療養所の外に出られるようになっても,差別が今もあるために、平沢さんは故郷に帰っても、本名を名乗ったり、実家の墓参りをすることができません。そのつらさや、結婚しても子供を持つことが許されなかった悲しみ、そして、仲間がいたからこそ生きていけた、という思いなどを、ゆっくりとした口調で語りかけました。生徒たちはメモを取りながら聞き入っていました。
その後は、資料館の見学です。特に生徒たちの興味をひいたのは療養所の規律を破った患者を閉じ込めた部屋「重監房」。群馬県草津の療養所「栗生楽泉園」にあった「重監房」の内部が、記憶や資料などを頼りに、大きさもそのまま再現されていて、生徒たちは実際に入ることもできました。真っ暗な部屋の中に入ってみて、「刑務所の独房のような部屋だった」ことを、生徒たちは感じていたようです。学芸員の方が「ここは資料館の中だから、空調も効いているけど、実際の重監房の中は、冬はマイナス20度にもなったんです」などと説明してくれました。
この日の見学だけでは、ハンセン病の全てを理解するのは難しいかもしれませんが、帰り道に感想を聞くと、「ハンセン病にかかった人の気持ちがわかりました」「平沢さんの話を聞いて、治っても故郷に帰れず、とても寂しい思いをしているんだなと思いました」「同じように困っている人がいたら助けてあげたい」と、それぞれの感想が返ってきました。「心のバリアフリー」を学ぼうという授業の一環で来ていたということで、生徒達はこの後の授業でも、リポートを書いたりしてさらに理解を深めたようです。
このように、「国立ハンセン病資料館」では、実際に差別を体験した方の話も聞けますが、元患者の方たちの高齢化も進み、平沢さんのようにいわゆる資料館の「語り部」として活動している方は2人だけ。平沢さんと全生園の自治会長で、資料館の運営委員もつとめる佐川修さんです。
佐川さんも76歳。リュウマチなどの持病を抱えながらの活動ですが、元患者として資料館に関わり続ける理由について、「入所者がいなくなっても、日本からハンセン病がなくなっても、ハンセン病の問題で終わりじゃないんです。正しいハンセン病の歴史を教訓として、患者たちがこういう偏見や差別を受けた時代があったということをずっと風化させることなく伝えてもらって、他の障害者や病気の人への偏見や差別を生み出さないようにしてほしいんです」と話します。将来、同じような偏見や差別が生み出されることをとても心配していました。
実際、HIV/エイズ問題などを始め、新たな差別も生まれています。だからこそ、将来のある子供たちに特に伝えておきたいようです。講演した平沢さんも、病気で今は入院しているんですが、見学者が小学生だということで、病の体をおして資料館まで来たそうです。「大人になった時、ふと、きょうのことを思い出してもらいたい」と平沢さんは最後に語りました。
平沢さんも佐川さんも、ハンセン病の歴史を直接知る自分たちがいなくなった後も、資料館はもちろん、全生園も残してほしいと考えています。全生園には元患者の方達が植えた3万本の樹木がある自然豊かな空間に、納骨堂など歴史を感じる建物も残っています。桜の季節は今も近隣の人で賑わいます。「公園のように地域の人に開かれた形で残してほしい」と話していました。
「国立ハンセン病資料館」(東京都東村山市青葉町4−1−13)は入場無料で、月曜が定休日。最寄り駅は西武池袋線の清瀬駅で、バスで約10分です。