![]() ![]() 沖縄の興南高校が優勝。戦後65年の夏、初の全国高校野球選手権大会優勝、初の春夏連覇で、沖縄の高校野球は、名実ともに全国の頂点に立った。甲子園球場のアルプススタンドでは、沖縄県だけでなく、多くの兵庫県の人たちが喜びを分かち合っていた。 ![]() 沖縄と兵庫の絆。 米軍が迫りくる1945年1月、神戸出身の島田叡が知事として赴任し、住民とともに沖縄戦の彼方に消息を絶った。旧制神戸二中、三高、東京帝大で俊足・好打の外野手として活躍した島田は、沖縄では白球を握ることはできなかった。 1964年、島田の母校、兵庫高校(旧制神戸二中)から沖縄県の高校野球連盟に「島田杯」が贈られる。アメリカの施政権下で、甲子園への出場権がなかった沖縄の高校球児たちは、島田杯を目指してボールを追った。 ![]() 甲子園球場の内外で、沖縄と兵庫の人々が語った人物で、島田叡とともに忘れられない名前があった。富田忠常さん、通称「お富さん」である。兵庫・三田学園の体育教師であり、寮監として多くの生徒の親代わりでもあった。教え子にはプロ野球選手もいる。 ![]() その「お富さん」が1950年、沖縄の糸満にいた。戦後まだ5年、厳しい渡航制限が敷かれている中、密航船で渡航した。糸満での教員生活はわずか3年だったが、そこで「お富さん」は人々に深い印象を残すことになる。 沖縄戦でも最も悲惨な戦いがあった糸満は、遺骨収集のさなかだった。そこで「お富さん」は何を見て、何を感じたのだろうか。そこから、沖縄の高校野球との絆が生まれていった。 「沖縄の高校野球が優勝する日は近い」。 ![]()
企画・構成:岩城浩幸(TBS報道局)
取材・構成:原 義和(沖縄在住ジャーナリスト) |
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