![]() ![]() 1944年11月7日。太平洋沿岸から大空に向かって放たれた、いくつもの巨大な気球。託されたのは「アメリカ本土直接攻撃」という壮大な野望だった。 気球には、和紙とコンニャクのりで貼りあわせた風船に、爆弾が吊り下げられていた。戦況が悪化した第二次世界大戦末期、追いつめられた当時の日本軍が最後の決戦兵器と位置づけ、終戦後、幻のように消えた兵器「風船爆弾」である。 ![]() 風船爆弾は、日本からアメリカに向かって吹く強い偏西風に乗せ、約9300個が放たれた。北アメリカ大陸に到達した数は推定1000個。もしそこに細菌が積まれていたなら―。事態を重く見たアメリカは、日本に作戦失敗と思わせるため、厳しい報道管制を敷いた。その結果、オレゴン州の小さな村で、5人の子どもたちと、おなかに子どもを宿していた牧師の妻が、風船爆弾の爆発で死亡した。彼らは、第二次大戦中にアメリカ本土で敵の攻撃を受けた、唯一の犠牲者となった。 風船爆弾の大部分は、学徒動員で集められた当時15、6歳の日本の女学生たちによって製造された。コンニャクのりの蒸気が立ち込める工場の中で、昼夜分かたず12時間の立ち仕事。それがどんな兵器になるのかも知らされず、ただ言われるがまま作業を行った。覚せい剤を飲まされながらの、過酷な労働だった。 ![]() 取材していく中には、自分が兵器の製造に関わったことが今でも心に重くのしかかり、多くを語りたがらない元女学生もいた。そんな中で話をしてくれた人々の貴重な証言の数々。青春の真っただ中、純粋に国を想い、ただ懸命に兵器を作った元女学生たちの戦争とはどんなものだったのか? 戦後20年以上を経て、アメリカでの犠牲者の存在を知った彼女たちの胸中は? そして犠牲者の遺族は今何を語るのか?
担当:杉本純基(TBS報道局社会部)
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