![]() ![]() 日常を撮る。 ![]() それは、ハリウッドのスペクタクルとは無縁の、淡々とした、どこまでも淡々とした映像が作りだす世界である。にもかかわらず、伊勢作品が見終わったもののこころに、奥深いメッセージを残していくのはなぜだろう。いや、見たときだけでなく、その後長い時間をかけて、私たちのなかで伊勢ドキュメンタリーの余韻が広がり、強まり、くり返されてゆくのはなぜだろうか。 おそらくはそこに、カメラが日常性のただなかに止まるからこそ滲み出してくる、生身の人間の姿があるからだろう。私たちはドキュメンタリーに登場する人びとの日々の暮らしを見ながら、そこに私たち自身を見、私たち自身の家族と社会と、この時代とを見つめている。 ![]() かぎりない「衝撃映像」や「感動シーン」を送りつづけているテレビや劇映画は、日常性に背を向けることによって、むしろ現実味を失ってはいないだろうか。伊勢監督の口からは、ときにそんなことばも漏れてくる。 しかし、だからといって監督はテーマだのメッセージだのを掲げてドキュメンタリーを撮っているわけではない。好きだから、撮りたいから、撮っているのだという。それでも、と詰め寄られると、最後にカントクはいくらか苦しまぎれにつぶやくのである。傍にいたいからだ、と。 「被写体の傍にいて、カメラとマイクを通じてその息づかい、空気のようなものが伝えられれば、それだけで充分だと思うのです。」(『カントクのつぶやき』) この時代にあって、「それだけ」のことは決して「それだけ」に終わらない。 ドキュメンタリーを撮るということ、作品として見てもらうということ、映像作家として生きるということ、そのすべてを楽しむということ、そのあわいが織りなす伊勢真一の世界をお伝えする。 (敬称略)
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