![]() ![]() 新潟県小千谷市の塩谷地区。あの山古志に程近い山間の寒村である。したがって、2年前の新潟中越地震で壊滅的被害を受けたことでは例外ではない。戸数50戸、その貴重な後継者になるはずの小学生3人が犠牲となった。 復興は、巨額の国費を投じてすすめられている。しかし、塩谷が元の姿を取り戻すめどはついていない。塩谷にとって元の姿とは・・・・。 1983年7月、12億円を投じた塩谷トンネルが完成、直後に村には"あの人"がやって来た。田中角栄。元首相にして刑事被告人。ロッキード事件の一審判決を控えていた。 田中のツルの一声で決まったといわれた、塩谷トンネルの建設。戸数60戸の僻地に12億円は過剰投資ではないかと議論を呼ぶ。「角栄トンネル」、田中政治の象徴として、全国の注目を集めた。だが、そこには住民の苦闘の歴史があった。 町へ出て行くのに立ちはだかる雨乞山。人々は険しい峠を越えて往来した。だが、豪雪の時期には人を寄せつけない。村人は、昭和11年から7年がかりでツルハシをふるい、手掘りのトンネルをくりぬいた。だが、軽自動車がやっと1台通れるだけのトンネルは、落盤の危険にさらされる。本格的なトンネルを望んでも、市や県の予算はつかない。住民たちが選択したのは、目白詣でだった。 田中政治には、ヒナ型があった。新潟県の初代民選知事・岡田正平は、日本の政治は「暖国政治」と断じた。雪の降らない地域との格差を埋めるのに、国費の導入を目指す。田中が受け継ぎ、向き合ったのは、高度成長期の「格差」問題だった。 だがそれは、問題の一面に過ぎなかった。トンネルの完成で、村人の暮らしは確かに楽になった。だが、最大の問題、「過疎」に歯止めはかからなかった。1軒、また1軒と、静かに離村が進んでいく。格差は一向に埋まらない。角栄トンネル建設に執念を燃やした、当時の越山会長・関慶司は、それを見ながら世を去った。長男の賢一は、絶対に村を離れない、そのために何をなすべきか考え、試行錯誤を繰り返してきた。それもこれも、あの震災が崩していった。 ![]() トンネル完成式典で田中が挨拶に立った場所には、記念碑が造られていた。その名も「明窓の碑」。「村に窓をあけた」ことを永遠に記憶にとどめるためだったその碑も震災で倒れた。ようやく碑は元の通りに起されたが、住民の多くは依然として仮設住宅にいる。 いま、復興の名の下に、巨額の国費が投じられている。今度は、批判どころか全国的な応援もある。その象徴のひとつが山古志だ。過疎地の中で、より過疎の塩谷よりも山古志・・・。震災復興でも格差? 揺れ続ける塩谷に、ボランティアが足を運ぶ。かつては考えられなかった現象だ。塩谷にとっての復興とはなんだろうか。村とは、否、"ムラ"とはいったい何なのだろうか。公共事業は答えにならない。取り戻すべき"ムラ"とは・・・。震災後2回目の冬を迎えようとしている塩谷から報告する。 (敬称略)
|
■ バックナンバー
|