![]() ![]() 白黒の一枚の写真。そこにはにこやかに笑う毛沢東、そして傍らにヘルメット姿の日本人が写し出されている。その前にはテレビカメラ。1956年10月、今からちょうど半世紀前のことである。 建国7年を迎えた北京で、「日本商品展覧会」が行われた。これにあわせて日本から大量の放送機材が持ち込まれ、仮設のアンテナも建てられた。そして10月6日、京劇の模様が中継で流れる。中国初のテレビ放送だった。 中国でテレビ放送が始まるのは、更に2年後のことである。テレビの受像機など勿論ない。北京の街頭に40台の受像機が設営された。そして、10月26日までに12本の番組が放送され、北京市民は25万人がこれを見たという。当時の北京の人口は250万人だった。 日本と中国の間に国交はない。日中国交正常化は、16年後の1972年まで待たねばならない。日本は、国家として認めていない中国を、「中共」と呼んでいた。しかも、東西冷戦が固定化されていく状況の下、両国が「こちら」と「あちら」に日々隔たっていった時代である。 そんな時期に、大規模な日本商品展覧会が中国で行われ、しかも、日本でも始まったばかりのテレビ放送という最先端技術を紹介できたのは何故だったのか。 「政冷経熱」?日中外交は、スタートからこの四文字を運命付けられていたというのだろうか。 毛沢東の隣にいた人物、ラジオ東京(現TBS)中継課長の新井清治は、中国初のテレビ放送に関わった1人である。彼は当時の様子を、2、200枚に及ぶ写真に収めていた。これをもとに当時を振り返って語る。 ![]() その頃生まれた中国人は、いわば「中国の団塊の世代」である。青春期に国交正常化を体験し、文化大革命を体験し、そして改革開放時代の今を生きる。多くは日本企業に就職し、日本の大学で教える研究者も年々増えている。彼らにとって、50年前の商品展覧会は決して不思議な出来事ではないという。 当時の中国政府の戦略、それが今も生きている。否、ようやく形になってきた。日本はそれを今も捉えていないのではないか。全ては、半世紀前に見えていた。 ![]() 日本で教える中国人研究者のパイオニア、朱建栄はそう指摘する。中国初のテレビ放送と、それを実現した日本人。そこに、国交正常化後も交錯し続ける日中関係の原点があったのだとすれば、振り返ってみた時に、そこに新たな関係構築のヒントが見えるだろうか。日本の政権が変わろうとしている今、過去を辿り、近未来を展望する。 (敬称略)
|
■ バックナンバー
|