![]() ![]() 2004年8月、一人の男が警察に出頭して、「女性を殺して自宅の床下に埋めた」と"自供"した。そして"自供"通りに遺体が掘り出された。しかし警察は、2日間の事情聴取をしただけで、そのまま男を帰宅させ、今も罪に問われていない。 被害者は、北海道小樽市出身で、東京都内の小学校に勤める教員だった。この女性が忽然と姿を消したのは、1978年8月14日。夏休み中の学校で、子供たちに開放されていたプールの監視当番に当たっていた筈である。 同じ小学校の警備員だった男の"自供"によると、この日、校舎内でこの女性とぶつかり、大声を出されたので首を絞めて殺害したという。それから26年・・・。 「時効」。ある日を境に、刑法上の罪に問われなくなること。刑事訴訟法250条は、死刑に相当する重大な罪が時効となるまでの期間を15年としてきた。一昨年、およそ100年ぶりの改正で25年に延長されたものの、改正前の事件は15年のままである。この女性の殺害は、時効の壁の彼方にあったのである。 家族は手を拱いていたわけではない。警察に相談したが、事件に巻き込まれた形跡が見あたらないとして、個人的理由による失踪と判断された。拉致被害の可能性もあるとして、特定失踪者リストにも登録された。 男は何故、時効成立後に"自供"に至ったのか。海辺の街に暮らす男は、何を語るのか。家族転じて遺族となった人々は、言いようのないやりきれなさに苛まれる。時効の壁を前にして、どのような道があるのか。遺品を前に、選んだ道。否、残された道。それは、時効によっても消すことの出来ない「真相」を確定させる、事実上たったひとつの道だった。その結論が、間もなく出る。 アメリカなど、多くの先進国では、殺人などの罪に時効はない。生涯、罪を問われ続ける。時効とは一体何のための制度なのか、考える。 |
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