2013年6月8日 夜9時~
モザンビークまでは、香港と南アフリカを経由して2日で辿りつきました。今の感覚で言えば、まさに2日もかかって辿りついたと言いたくなってしまいますが、彌助の時代を思えばミラクルです(笑)。他の国にも立ち寄っていますが、彌助がモザンビークを出港して約5年後に日本に着いたと聞き、私は快適な空の旅で、たった2日で来れたんだと思えました(笑)。
ポルトガル植民地時代のモザンビークに詳しい歴史学者と
モザンビークには、植民地時代にどんな人がポルトガル人の商人や宣教師に連れられ、国外へ行ったかという記録はほとんどありません。わずかな記録を頼りに浮かびあがったのが、ポルトガルの基地があり、世界へ旅立つ船の拠点となっていたモザンビーク島のマクアの人たち。モザンビーク島は、立派な橋で本土と繋がっている小さな島です。ポルトガルの基地は世界遺産になっていて、ヨーロッパの雰囲気ですが、マクアの人たちが住むマクティはアフリカらしい素朴な村でした。子どもたちが吸い寄せられるように私の両手に集まってきて、私は磁石?と思ったほど(笑)。可愛かったですね。
モザンビーク島のマクアの人たち
「こんな遠く離れた国なのに日本と似ていることが
いろいろあって驚きでした」(宮地さん)
彌助と似た体形と年齢の青年が着物姿に
番組で紹介するこの青年の名前にも注目です!
現地で歴史学者の方や長老のお話を聞くと、体力があったり優秀だったりする若者を奴隷として連れて行ってしまうというのは本当に酷いことだったと思わざるをえませんでした。でも信長と彌助の関係を探っていくと、彌助にとって日本での出来事は、いい思い出もたくさんあったのでは?とも考えたくなります。そして彌助は信長の死後、無事故郷へ戻ることができたのだと思いたいですね。
信長の死後、記録から消え去った彌助
再び故郷の地を踏み、この景色を見ることができた!?