2012年10月12日(金)よる10時誕生
まず、中世〜近世の城の造りとして、城主が政(まつりごと)を執り行う公の場所を「表」と呼び、それに対して、その城主と正室ほか一族の者が住む場所、居住スペースを「奥」と呼んでいました。
しかし、江戸城の中枢となる本丸御殿では、政を執り行う「表」のほか、将軍の居住スペースとなり現代でいう官邸ともいえる「中奥(なかおく)」、それと将軍の正室=御台所(みだいどころ)や女中たちが住む「大奥」と分かれていました。
ちなみに、初代将軍・家康と2代秀忠の頃、将軍以外の重臣でも大奥の出入りは許されていましたが、家康の死後、2年経った1618年に出された大奥の取り決め「大奥法度」には、「男子は立ち入り禁止」「身分を問わず出入りには手形が必要」などといった厳しい取り決めが明文化されています。これにより「大奥」は、さらに外界と遮断され隔離された世界となり、3代家光の乳母・春日局の登場により組織的な整備がされ、現代まで語られる大奥の礎が築かれていきました。