時事放談 トップページ 毎週日曜あさ6:00〜6:45
過去の放送 出演者 時事放談「サロン」 テレビプロデューサーの日々
 
 

浜矩子氏「もちろん不可能」(9月27日放送)

浜: まずこの数字はもちろん不可能ですね。まあ下手な弓矢も数打ちゃ当たるというわけなんでしょうけれども、目標への具体的な方法は、ないんだと思いますね。だって、そもそも真剣に年平均3%成長などということをやろうとしているのなら、これほど怖い事はないと。どんなにドーピングしたってそんなペースで日本経済は走れないですが、それを走らせるとなって手当たり次第に矢ばかり放っていればですね、肝心の経済のバランスは大きく崩れていくと思います。で、経済のバランスが崩れればいの一番に痛むのは弱者ですから、この弱者救済という政策や政治の重要な役割とも逆行する、これはもう政策という名に値しないことがどんどん行われていくっていう事だと思います。それが最も怖いことだと思いますね。

首相官邸に入り、まずは食堂に向かった。昔、総理番((海部内閣=1989〜91年海部俊樹) のころの本当に昔なのだが)を担当していた頃は、官邸の総理を始めすべての食事を出す調理場の脇に長テーブルが3つほどあって、そこで警護のSPなどにまじってカレーを食べたものだったのだが、官邸も改装され、記者クラブ「内閣記者会」の脇にテーブル4つほどの、こじんまりとした食堂ができたのだ。何かに勝とうと、カツカレー730円を頼んで6人掛けの席の端に座って出来上がりを待っていると、総理番なのだろう女性記者3人が元気にやってきてカレーを頼んでそのまま相席状態に。「ほかにも空いてるのに」なんて思っていると、仲間の女性記者が一人、一人と座ってきて「囲まれ状態」。意味もなく疲れた頭でオセロの盤面を想像したりした。「丸川さんなに着てくるのかなあ」「呼び込みの時ドレスでうろうろしてたら変だよう」「そうか、初閣議で写真撮影の時かあ。ドレスは」などと元気がいいいのだ。

昔と違ってアルコールに痛んだ胃に胸やけをおこし、後悔しながら食堂を出てロビーに上がると、ちょうど、「呼び込み」を受けた元プロレスラーの馳浩新文科大臣がランドクルーザーを横付けにして降りてくるところだった。その鍛えた体はとにかくデカイの一言。さかんにフラッシュを浴びてロビーを歩き、総理執務室につながるエレベーターに乗っていった。

次に国会の委員会での「この愚か者めが」の罵声で知られる丸川珠代新環境大臣が登場だ。人生の見せ場なのだろう、ワイン色のワンピースの色もあでやかに、秘書官とSPを従えて、カツカツとハイヒールの音をホールに響かせながらエレベーターに向かっていった。そして、改造内閣の看板の「一億総活躍社会」担当の加藤勝信大臣の登場だ。本人よりも脇に歩く秘書官と思われる人の笑顔の方が印象的なのだが、「看板大臣」とあって記者の一群が駆け足で寄っていったりしていた。そしてやってきたのが、近くまで続いたTPP交渉で疲れたのか、やつれた表情の甘利明経済財政政策担当大臣だった。

続いて、改造前は自ら率いる岸田派から5人の大臣が出ていながら、今回は自分だけになってしまった岸田文雄外務大臣。なにやら厳しい表情でカメラのフラッシュの前をエレベーターに向かった。そして、派閥を立ち上げ、「ポスト安倍」で去就が注目された石破茂地方創生大臣の登場。こちらも厳しい表情でエレベーターに向かった。派閥を立ち上げながらなんで「閣外」で「ポスト安倍」の準備に入らなかったのか。この後、スタジオで苦しい胸の内を明かしたのだが。


石破茂氏「閣僚を続けるのは矛盾しない」(10月11日放送)

石破: 私が高校生の頃、佐藤政権(=1964〜72年佐藤栄作)が終わりの頃ですよね。あの時に田中角栄先生が通産大臣、福田赳夫先生は外務大臣やっておられた。あるいは鈴木善幸総理(=1980〜82年)の時に中曽根康弘先生が行政管理庁長官やっておられましたね。皆さん私より遥かに立派な方で、幹事長や政調会長、主要閣僚みんなやられた方々でしたよね。

ポストってのは、個人のためにあるもんじゃないんで、国家国民のためにあるものだと私は思うんですね。地方創生って取り組みに、どうしても道筋付けたいってことはありました。もうひとつは閣僚を続けながら、ってことなんですけれど、今の閣内も政策集団の長は何人かいらっしゃいますですよね。ですから、それは別に相対立する、相矛盾する概念ではない。

やらなければいけないことは、自分がどれだけ国民のために仕事ができるかしらってことだけが問われているのであって、後の事は考えても仕方ないですね。

官邸の記者会見場での記者会見が始まる予定は、夕方6時半だった。準備はそれぞれ余念がない。官邸の職員が演台前に2つ置いたプロンプターのチェックのために何度も壇上に立ってそこから覗いて見え方をチェックしたり、その高さを上げたり下げたりを繰り返した。そして突然、後ろの方の照明が消され、カメラマンが騒ぎ出したのだが、職員が「これで本番の明るさです」という。これの方が「映り」の効果があるのだろう。なんという念の入れようだと驚いた。

「間もなく総理の記者会見が始まりますので会見場にお集まりください」とのアナウンスがあり、記者がぞろぞろ集まりだした。前の2列には各社に割り振られたプレートが置いてあり、みなそれに従って着席すると、司会者が「質問者は挙手、質問は大きな声ではっきりと」そして「おおよそ20分で終わるよう協力をお願いします」と言うのだ。総理会見の思い出といえば、細川内閣(=1993〜94年細川護熙)なのだが、読売新聞の官邸キャップが、国民福祉税を発表する深夜の記者会見で何度もその理由を質し、最後にその税率を細川総理が「腰だめの数字」と明かし、結局国民福祉税がとん挫した場面なのだ。それが20分とは。それを提案する政権側もそうだが、それを受け入れる内閣記者会に、なんの気概も感じられないのだ。

6時半に登場した安倍総理は、プロンプターを見ながら「この内閣は未来へ貢献する内閣でありますっ」と声を張り上げた。「少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も人口一億人を維持する。そして、高齢者も若者も、女性も男性も、難病や障害のある方も、だれもが今よりも、もう一歩前へ踏み出すことができる社会を作る。一億総活躍という輝かしい未来を作り出すため新しい挑戦を始めます」と、プロンプターを見ながら胸を張ってとうとうと語った。その後も、胸の前で両手を開いたり、こぶしを作ったり、左手を掲げたりと「演説」は続き、「私からは以上であります」とまとめたのは6時45分と15分後だった。「あと5分しか…」と思っていると、幹事社の「平成30年まで任期がある。これから3年で成し遂げるべき課題は」「女性の活躍の今後の課題は」「補正予算案は…」などと質問が出、安倍総理は今度は手元の資料をめくりながらよどみなく答えて見せた。「以上をおきまして記者会見を終わらせていただきます」と司会者がまとめたのは7時1分だった。

記者会見場から出て出口に向かうと、知り合いの記者が寄ってきて「総理は全部読んでますから。自由質問だって報道室が各社回って、何を聞くのか聞いて回ってますからねえ」などと囁いたりした。出口に向かうと夜の暗闇の向こうに、改装されて公邸になっている、昔の官邸の建物が見えてきた。総理番を始めた頃、内閣改造の日は新聞社も、テレビ局もなぜかこの庭にテントを張って、そこから原稿を送ったり中継していたのを不意に思い出した。強面の官邸キャップが「母屋を使って政権に借りを作らないってことだよ」と教えてくれたっけ。数日後、朝、新聞を開くと「内閣支持率」は、上がっていた。


※本原稿は調査情報11〜12月号に掲載されています。

石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

ページ |