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「弱者救済」と「平和主義」と~番組11年目のスタートに 【2014年5~6月号】


7人、10代の内閣への「直言」

朝、窓際にある会社の机に着くと、封筒が山積みになっていた。中には「TBS『時事放談』10周年記念パーティーのご案内」。開けてみると「謹啓 陽春の頃 益々ご清祥のこととお慶び申し上げます」と始まって「さて この度 TBS『時事放談』は 本年4月をもちまして放送開始10周年を迎えるに至りました これもひとえに 政治の様々な節目でご出演頂き お茶の間に貴重なメッセージをお話頂いた皆様方の温かいご支援の賜物と深く感謝申し上げます」とあった。数日前に注文したのが出来上がったのだ。文面を見ながら、「もう10年もたっていたんだな」と思ったりした。

田中真紀子外務大臣らが「活躍」する小泉政権華やかなりし最中、「ワイドショー政治を叱る」を旗印に、「しがらみのない長老大物政治家の直言で政治の本当のことをお茶の間に届けていこう」と、番組を立ち上げたころが昨日のように鮮やかによみがえってきた。思えば、小泉政権に始まって、その後、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田、そして第2次安倍内閣の今に至るまで7人、10代の内閣について番組で議論し日曜の朝に「直言」してきたわけだ。

初回は、小泉純一郎総理の方針の下、2003年衆院選への出馬をやめて間もない中曽根康弘元総理と宮澤喜一元総理。タイプの違う二人のテレビ出演は初めてのことで、注目を集めたっけ。引き出しをひっくり返して資料を出してみると、当時の小泉総理の「自衛隊のイラク派遣」をめぐって火花を散らしていた。


中曽根康弘氏「21世紀にどういう影響を持つか」(2004年4月4日放送)

宮澤: この戦争そのものにはいろいろ問題がある。第一、大量破壊兵器というものは発見されていないし、それから9・11というものとサダム・フセインとは直接関係がないということもどうやらはっきりしているし、安全保障理事会では決を採らないでどんどん先に行ってしまって、おまけに先制攻撃をしたわけですから。

中曽根: 私はちょっと違うんですね。イラクに武力行使をやった時も、すぐにアメリカを支持しましたし、小泉君にも早くアメリカを支持しなさいよ、とそういうことも助言しましたね。それは、もう大局的に考えてみて、今日の時点だけではなくして、二十一世紀に対してどういう影響を持つかということも、政治の判断でなくてはならない

その後宮澤氏はがんを患った後も、ひどくやせた姿の見栄えを気にする周囲の反対を押し切って亡くなる直前まで番組出演を続けてくれた。後世にこれだけは伝えたいとの「執念」には敬服するばかりだった。いつも、手帳には「平和憲法」の小さな紙片をはさむとともに、戦後の為替レートを細かくメモし、お尻のポケットに忍ばせていたっけ。 「案内状」を幾つかかばんに入れ、まずは中曽根事務所を訪ねてみた。虎ノ門のオフィス街の一角にある事務所では窓から昼前の明るい日差しが差し込む中、初老の秘書が「もう10年もたちましたか」などと言いながら笑顔で迎えてくれた。そして、「都合が付くかわからないので、出席しない場合にはメッセージを出させていただくことでいいでしょうか」と言うことだった。「いずれまた、番組にも」と水を向けると「どうも最近は調子に波があるんですよね。いい時はいいんですが、調子が悪いと、うまく答えられないことがあるんです。最近でも集団的自衛権についての言い回しが本人の意図と違って受け止められたりして…」と顔を曇らせた。言い振りからすると、今は調子が悪いのであろう。奥の部屋に中曽根氏がいるのかたずねるのも悪い気がして、「また様子を見て、よろしくお願いします」と言うにとどめ、そのまま引き上げた。

中曽根氏は、初回の後は政局の節目で読売新聞グループ本社渡辺恒雄主筆とのコンビで出演を続けてくれた。福田内閣当時の民主党の小沢一郎代表との「大連立構想」の際には、夕方から夜にかけた1回目と2回目の党首会談の間という緊迫した最中の収録だったっけ。渡邊氏はスタジオに向かう廊下で誰だかに携帯電話で「もっともっと押していけっ」などと声を荒げるし、中曽根氏は収録で「やる以上はね、どっちが総理になるか、あるいは副総理になるか、中に入って一緒に助けると、それくらい日本の状況はピンチにあると。危機にありますよ。だからやる以上はとことんまでそこでやると」と、熱く語っていたことなどが思い出され、なんだか寂しくなってきた。

それでも気を取り直し、番組立ち上げのオリジナルメンバーである「塩爺」こと塩川正十郎氏の事務所に向かった。塩川氏は第2回目の放送が最初で、宮澤元総理を相手に、小泉内閣の下での景気の状況について「宮澤先生は大企業の偉いさんとお付き合いが多いからね、やっぱり私は中小企業の下っ端のほう。だからその感覚はだいぶ違うんですけどね。中小企業のおっさん連中がどない言ったかというのはですね、非常に苦しいのは孫請けが多いですからからね、この為替がきついんですよ、と。馬鹿やろうそんな心配はするなと!と私は言っておきましたけどね」と大声で「路地裏の経済学」を展開し、宮澤さんをびっくりさせていたっけ、などと思い出したりした。

西新橋の大通り沿いのオフィスビルの6階にある事務所には古くから知る初老の女性秘書が気のせいか暗い表情で出てきた。「先生の好きだった番組ですからパーティーは出たいのですが…」と言う。文字通り歯に衣着せぬ口ぶりで人気だった塩川氏は4年前の夏に仲の良かった一番の上の弟の急死の後に脳梗塞に倒れ、それ以降出演は見合わせていたのだが、時折事務所を訪れると肉をご馳走してくれてリハビリの調子などを元気に話してくれていた。聞くと、今年の1月に下の弟も急死し、その後、家の池の周りでころんで骨を折ったという。そして入院後も大阪にいて、まだ東京に出てこられないということだ。「本人は来たいと言うんですけどお医者様が止めているんです。骨を折った後は、なんだかリハビリも熱心じゃなくなっちゃって…」とか。主のいない事務所は蛍光灯の一本が古くなって点滅し続け、なにやら寂しい感じになっていた。「メッセージを石塚さん書いてくださらない。でもそれじゃあやらせになっちゃうかしら」とも言う。壁にかけてあったいくつかのテレビ出演やら雑誌の取材のときの写真の大きなパネルも部屋の脇に片付けられ、なにやら事態は尋常でないようにも思われた。そして、またもや沈んだ気持ちのまま事務所を後にすることになった。

そういえば、番組を立ち上げたときの企画書では「中曽根、宮澤、後藤田正晴、塩川、野中広務の重鎮5人をレギュラーメンバーとし、2人づつスタジオに招いて展開する」というものだった。このうち「現役」なのは今や野中氏だけなのだ。司会だった岩見隆夫氏も今年1月、亡くなっている。

野中氏の最初の出演はスタート第3回目で、後藤田元副総理とのコンビだった。「小泉政治3年を総括する」をテーマにしたこの回に後藤田氏は「どうも今は『強者』の論理が強すぎる。どんな時代になっても立場の弱い人、気の毒な人っていうのはできるんですよね。ならばそういう人に対して政治の光をどう当てるか、というのが政治を担当するものの大きな責任だと私は思うね」と語った。そして、後藤田氏は亡くなる1ヶ月前の2005年8月まで月1回のペースで番組に出演し続け、「戦後60年の間、日本の自衛隊によって、他国の人間を殺したことがない。また、他国の軍隊によって日本人が殺されたこともない。先進国でこんな国は日本だけ。これは本当に誇るべきこと」などとも語った。

後藤田氏の「弱者救済」と「平和主義」の考え方は、その後、番組の基本理念として今に続くことになった。

その「最後のオリジナルメンバー」たる野中氏の熱いメッセージが、今でも視聴者の幅広い支持を集めているのに驚く。安倍政権になって、今さらに力が入っているのだから。


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