「圧勝」と「惨敗」と 〜夏の参院選、攻防の初めに 【2013年3〜4月号】
●三日天下のあとに
朝、底冷えのする国会の裏の渡り廊下を通り、議事堂の建物に向かった。安倍政権発足後初めての与野党本格論戦となる衆院予算委員会を見ようと思ってやってきたのだ(2月7日)。
3階にある予算委員会の部屋に入ると9時の開始15分前だった。既に委員席の後ろ側の与党の傍聴席には10人ほど若い議員が座っていた。新人教育にうるさい幹事長殿の質問がこれから始まるからだろうか。しばらくすると谷垣禎一法務大臣が、閣僚一番乗りで登場。入室する前に委員会室に向かって一礼するところが、折り目正しい谷垣氏らしかった。そして、前宮崎県知事の東国原英夫氏、前横浜市長の中田宏氏ら維新の会の議員らが入ってきた。委員長を含め50人からなる委員会で、民主党はわずか6人。質問席の、記者席から見て手前の3人掛けの机が前後2つと、こぢんまりとした格好だ。後ろにも自民党席がある状態でなんとも心許ない。いかに、昨年末の選挙が惨敗だったかを文字通り浮き彫りにしてみせていた。
『時事放談』で、落選した仙谷由人元官房長官が、『毎日新聞』の藤村修前官房長官インタビュー記事(1月24、25日付)をきっかけに、民主党の「甘さ」を振り返った姿を思い出した。昨年11月14日に野田総理が突然解散を表明した舞台裏について、藤村前官房長官が「昨年11月2日だ。首相公邸で(略)岡田克也副総理と私が残って野田首相と話した。(略)その席で『党首討論の場で打ち出したらどうか』という案が浮上した。討論の場でずばっと約束しようということになった」と、インタビューに答えた件くだりをスタジオで紹介した時のことだ。
●「疎かだった」仙谷由人氏(1月27日放送)
委員会が始まり、大きな拍手に迎えられて質問に立った自民党幹事長たる石破茂氏は安倍晋三総理に、総理就任そして体調不良で辞任、そして改めて総理大臣との、この間の思いを尋ね、安倍総理はしみじみと語り出した。
「2006年に総理大臣に就任した時、それまで官房副長官、幹事長、幹事長代理、官房長官、さらに圧倒的支持を頂いて総裁総理になった。私の理念、政策を一気に進めていけるのではないかと思った。しかし、違った。国民の皆様に大きな迷惑をかけた。マスコミを通じて日本中から厳しい批判を頂いた。自信と誇りは粉々に砕け散った。その砕け散ったものを拾い集めることも必要だった。まだまだいけるよ、あなたしかいない、と。家族を含めて。政治家として仕事を続けていく資格はあるのか。受け入れられるのか。なぜ1年で終わってしまったのか。ノートに書いていることは、問題点を見つめ直すきっかけになった。わが党は政権を失った。これは私が辞めたことによって自民党へのガバナンスへの疑問が生じた。責任を痛感した。09年の総選挙において、もし圧倒的な支持(山口4区)が得られなかったら引退しようと思った」と。そして、今後は「謙虚に丁寧に、慎重に大胆にやっていきたい」と結んだ。
委員会室は静まり返り、なんとも腹が据わってるなあと思った。そして、こりゃあ民主党は惨敗するわけだわいと思ったりもした。
そんな中、石破氏は手際よく、経済政策、安全保障など安倍総理の「十八番」を尋ね、安倍総理は「立て板に水」とばかりに、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」からなる「アベノミクス」、そして、中国海軍の艦艇が日本の護衛艦に射撃レーダーを照射したという出来事や北朝鮮の核実験などを例に挙げるなどして安全保障の問題を説明。「日本には責任が出てきた。13年度の予算において久々に防衛費を増強した」と胸を張った。 昨年暮れの総選挙圧勝以来の株高、円安、さらに株価が最高値を更新していることで自信を深めているようだった。中国、北朝鮮の動きも結果として、安全保障で強硬な発言を口にしてきた安倍総理の追い風になっていた。『読売新聞』の全国世論調査(2月8〜10日実施)では内閣支持率71%と、内閣発足から2回連続で上昇という細川内閣(93年)以来の状況だった。いつのまにか隣の席で取材を始めていた後藤謙次氏が「総理は顔色いいなあ」とつぶやいた。翌日の収録になった『時事放談』で、石破氏は射撃レーダー問題の裏側を強調した。

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そういう意味で一体全体、選挙あるいは党というものを、どう考え、枠組みの中に位置づけておったのか。与党の選挙というのは野党の選挙とは随分違うということを、我々は全然わかっていなかったということでしょう。私自身も負けたわけですけれども、民主党という与党がどういう選挙態勢を組むのか、これは言論戦、宣伝戦も含めて、やっぱり全体としても疎かだったんじゃないか