戦う80歳 〜「最期」の日々 【2012年7〜8月号】
●死を前にした「水戸黄門」
6月の昼。燦々と初夏の日差しが窓から注ぎ込んでいた。議員会館の事務所を訪ねると、窓際には誕生祝の蘭の花がいくつもまだ咲いていた。民主党小沢一郎元代表の側近で、去年の菅内閣への不信任案に賛成して今は無所属のこういう人から、そして自民党の佐田玄一郎議員、荒川区長の西川太一郎氏からも。松木けんこう議員は、学生時代からの親友の藤波孝生元官房長官の秘書だったということでかわりがり続けるのはわかるのだが、佐田氏との関係は不明だ。こういうところに、ここの主の人脈の広さの真骨頂がある。
5月24日。今日と同じように、メンバーである衆議院予算委員会の昼休みの時間を使っての打ち合わせの後、民主党の渡部恒三最高顧問は、救急車で病院に運ばれる緊急事態となった。ちょうど80歳の誕生日だった。あれからちょうど2週間後。渡部氏はドタキャンをしきりに悪がって、退院して元気になったというので、改めて番組出演をお願いし、今日、打ち合わせに来たのだ。しばらくすると「おうっ、久しぶりっ」と文字通り「水戸黄門」の格好で部屋に入ってきた。「あんな経験初めてだあぁ。立ち上がったら、ふらふらっとして、血をドーッといっぱい吐いたんだからあ。それで倒れて、ここらへん血で一杯だったんだからなあ。あんたと打ち合わせして、その後、福島の副知事の陳情20分聞いて、帰った後だよ」。そんな緊急事態も、渡部氏の手にかかるとなぜか漫談のように聞こえてくるのだ。タバコをおいしそうに吸うので「いいんですか」と聞くと、「お医者さんに酒は絶対駄目だと言われてるんだ。でも、タバコは駄目と言っても守らないでしょうからってなあ。はっはっ」と。しかし、「良くなって良かったですね」と水を向けると、ハッとするようなことを口にした。
「あのままパカーッと死んじゃえば良かった。そうすれば、もう苦労しないですむから。政治不信がこれほど酷い時はないなあ。あ、君、国会議員だけはなっちゃ駄目だぞお」。死を前にして、陽気なこの人がひどく思いつめていることを初めて知った。退院後初めての番組出演となったスタジオで渡部氏は自らの思いを語った。
●「もう何でもしゃべる」 渡部恒三氏(6月10日放送)
そしてその思いは、有権者の期待を背に政権交代しながら、その後「決められない」民主党政治の不甲斐なさであり、国が1000兆円もの借金を抱えることへの苛立ちであった。
「決められない政治」。与党ながらも党内に激しい対立を抱え、参議院では過半数の議席を持っていない状況。「それでも……」、と渡部氏は考える。それを乗り越え、決めるのは与党の責任だという思いは募る日々なのだ。その考えは、新聞のコラムにも書いていた。結局、入院が続き、その回は出演できなかったのだが、そのまま出演となった対談相手の自民党の大島理森副総裁は、「病院で見てくれているかもしれないから」と、その新聞をスタジオで持ち出した。そこにはこうあった。
「やはり、与党である民主党と内閣が、自民、公明両党の皆さんが国民の前で堂々と賛成してくれるような環境を作り出さなければならない。それは政権与党側の責任だ」「古いといわれるかもしれないが、野田民主党には話し合いを円滑に進めるために根回しする努力も残念ながらまだ、十分とはいえない。かつての自民党では、官房副長官や国対幹部は席が温まる間もないほど各党を回っていたものだ」「自民党総裁選や民主党代表選、衆院解散・総選挙のタイミング、小沢くんの出方など、いろいろな政局的要素が複雑にもつれてはいるが、誠意ある話し合いで解きほぐしていくしかないのだ」。
なるほど、「もつれ」をほぐす。そして、それができなければと渡部氏は話をまとめる。
「決めるべきことを決めず、政治が停滞し続けるなら、政党の衰退どころか国が滅びてしまう」(『産経新聞』5月24日付)
与党の責任を果たせない民主党。渡部氏の退院後あらためてスタジオに同席した野党自民党の大島氏は、のらりくらりと消費税増税法案の採決の「先送り」を探る民主党の輿石東幹事長の様子を指摘し、不思議な国会だとなげいた。

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渡部:いやあのね、私と一緒に仕事していると、だいたい70代、60代で亡くなっています。竹下登さん、田中角栄さん、小渕恵三君、橋本龍太郎君、だからね、80歳まで生かしていただいたというのは、これでもう結構だと思って。もう、何も欲得ありませんから、国のためにだけしか考えません。今日はもう何でもしゃべります。