バックナンバー:バース・デイ

BACK NUMBER #633 2018.9.1 O.A.

バックナンバー
“5連続敬遠”を悔やみきれない星稜エース…失意の人生
今や伝説となった夏の甲子園大会での松井秀喜5連続敬遠から26年。当時の星稜高校のメンバーが同窓会を開き、初めて胸のうちを明かした。あの5連続敬遠は当事者の松井だけではなく、仲間の球児たちにも大きな爪痕を残していた。その1人が月岩信成。4番・松井が敬遠された後にことごとく凡退した5番バッターだ。彼は、敗戦の責任を感じ続け、仲間たちと少し疎遠になっていた。しかし今回、26年間の呪縛を解いて欲しいとの思いから同窓会に参加していた。他にも今回、同窓会に集ったのはマネージャーなどを含め13人。40代半ばを迎えた彼らは、地元で職に就いた者、新聞記者になった者、アメリカ留学を果たし、年商100億円の会社で専務取締役を務める男など、それぞれの人生を送っている。しかし、彼らの胸には共に、あの試合への複雑な思いがあった。副キャプテンを務めた山口哲治もその1人。地方予選5試合に全て先発し、防御率0.00の驚異的な数字をマーク。星稜高校の絶対的エースだった。そんな山口も自責の念にさいなまれ、26年間心に秘めていた後悔を口にした。その真意を確かめようと、後日自宅を訪ねた。当時のユニフォームを見せながら、敗戦の思いを改めて語った。
「自分が松井の敬遠を作ってしまったんですよ。当事者、張本人なんですよ。」
対戦相手の明徳高校は、1点でもリードすれば松井は敬遠、そのまま逃げ切るという戦略を徹底していた。敵将・馬淵監督は、勝つ為には必要な手段だったと当時を振り返る。当然、その作戦を知る由もない山口は0-0で迎えた2回裏、不運が襲いかかる。星稜は2回、味方のエラーが絡みで先制点を奪われてしまった。すると、明徳は作戦通りに松井を敬遠。その後も追いつくことが出来ず、松井は全打席敬遠をされ、まんまと明徳の術中にハマってしまった。その悔しさは26年経った今も変わることはない。その後、山口は、ピッチャーとしての才能を高く評価され、甲子園2回戦敗退にも関わらず、松井と共に日本代表に選出された。そんな中、「松井と真剣勝負がしたい」と山口自身もプロ入りを決意。そして迎えた1992年、運命のドラフト会議。超高校級バッター、松井の自宅には早朝から報道陣が殺到。一方、山口は、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。4球団から指名された松井は、巨人が獲得。学校中が沸き立った。しかし山口は、その歓喜の輪には加わらず、他の3年生の部員と共に待ち続けた。だが、最後まで山口の名前が呼ばれることは無かった。それでも山口は諦めなかった。社会人野球に進み、プロを目指す。同級生・松井に真剣勝負を挑む。そんな思いを胸に投げ続けた。すると、酷使してきた左肩が悲鳴を上げ、8年目で現役を引退。夢にまで見たライバル・松井との真剣勝負は叶わなかった。
山口は現在、高校を出て就職した神戸製鋼で働いている。子どもは3人。お父さんの影響で、長女も含め、全員が野球をやっているという。山口自身も少年野球の監督を務め、甲子園での経験を指導に生かしている。
星稜ナインにとって松井秀喜は、今も人生に火をともす存在になっている。あの5連続敬遠から26年、今改めて思う事…。
「あの試合があったからこそ今がある。」
松井秀喜の名を日本中に知らしめた伝説の5連続敬遠。そこにはかかわった者の数だけ、壮絶なドラマが秘められていた。
[BACKNUMBER]
banner_AD
Loading…

SNS

TBSトップページサイトマップ Copyright© 1995-2025, Tokyo Broadcasting System Television, Inc. All Rights Reserved.