前回のオンエア:バース・デイ

LAST ON AIR #727 2020.8.8 O.A.

前回のオンエア
野球人生のどん底から復活を遂げた男達の今
年齢・実績は関係なく、突如告げられる非情の戦力外通告。毎年100人以上の選手が突きつけられる過酷な現実がある。
かつて、「リストラの星」と呼ばれた宮地克彦。西武、ダイエー、ソフトバンクで17年間戦い続けた宮地は、どんな窮地でも決して勝負を捨てない男だった。持ち味は粘り強いバッティング。2005年には2ストライクに追い込まれてからの打率は、球界トップ3割越えを果たした事も。堅実なプレーで多くのファンに愛され、オールスター出場も果たした人気選手だ。1989年、18歳で投手としてプロの世界に入った宮地。3年間、1軍デビュー出来ずにいると、1993年に打者へ転向。そこから打撃練習を重ねていき、ようやくレギュラーに定着したのは2002年。気づけばプロ入りから13年が経っていた。主に3番バッターとして100試合に出場。西武3年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでも2試合に先発出場を果たした。31歳でようやくプロ野球選手としてスタートラインに立つことが出来た。だが、翌年の2003年、右足に痛みが発症。それがきっかけとなり出場機会が激減。そしてその年の10月戦力外通告を受けた。膝の痛みはなくなっていた。宮地は現役続行を目指し、ロッテ、近鉄、横浜の入団テストを受けるも不合格。最後の望みをかけて12球団合同トライアウトへ挑んだ。トライアウトから10日後、1本の電話で状況が変わる。ダイエーからの入団テストの電話だった。首の皮1枚、ギリギリで掴み取ったラストチャンス。野球人生の全てをかけ、力の限りを出し尽くした。テスト期間、頭から不安が無くなることはなかった。戦力外通告を受けてから1か月、幾度となく期待を裏切られ地獄の日々を歩んできた。そしてテスト最終日、宮地に合格したことが告げられた。32歳、新天地で迎えた2004年、規定打席には及ばなかったものの、3割を超える打率を残すと、翌2005年のシーズンには首位打者争いにも名乗りを上げた。その後、ソフトバンク、独立リーグでプレーを続け、2007年宮地は36歳で現役生活を終えた。引退し13年…宮地は栃木県小山市に本拠地を構えるエイジェック女子硬式野球部のヘッドコーチを勤めている。
そしてもう一人…松坂世代、屈指のスラッガーと呼ばれた古木克明。古木は高校時代からその非凡の才能を発揮していた。松坂大輔率いる横浜高校が優勝した1998年夏の甲子園。愛知豊田大谷高校の3番バッターとして、チームをベスト4に導く活躍を見せた。そして、ドラフト1位で横浜に入団すると、プロ4年目の2002年21歳の若さで4番の座を任された。だが、そんな男にも非情の宣告が言い渡された。プロ11年目の2009年、28歳の時に戦力外通告。野球を諦めることなど、出来なかった。居酒屋でアルバイトを始め、月に10万円ほどの収入を得ながら練習を続けた。現役復帰を目指し、トライアウトを受けるも、オファーがなかった古木は戦力外からわずか2か月後、格闘家へ転身。2試合に出場し、1勝1敗の成績を残した。だが、プロ野球選手時代に味わった喜びを感じることはなかった。戦力外から2年が経った2011年、再びプロ野球選手を目指すと決断。1年半のブランクを取り戻すため、必死に練習を続け、2度目のトライアウトに挑戦するも不合格。それでも、プロ野球選手としての栄光をもう一度取り戻そうと、トライアウトを受け続けた。そして古木は野球を出来る場所を求め、アメリカの独立リーグ、ハワイにあるチームに入団。しかし、戦力外通告から4年が経った2013年、32歳で古木は野球を辞める決断を下した。翌年の2014年、33歳の時に大学院へ入学。ここは新しく事業を立ち上げたい社会人が様々なノウハウを学ぶ場所だった。古木は、自らが起業するという目標を持っていた。これまで野球しかしてこなかった男は一から勉強を開始。大学院を卒業し、古木は2017年野球スクール、野球イベントを行う会社を立ち上げた。スタッフは古木1人。場所の確保から指導まで1人で行ってきた。今はまだ成長段階、資金のやりくりなどで困難な事はあるが、日々の生活の中で、古木は充実感を覚えていた。
野球人生のどん底から這い上がり、復活を遂げた2人の元プロ野球選手。どんな窮地に追い込まれても、決して諦めずに、挑戦を続けてきた2人であれば今後、更なる活躍が出来ると心から期待している
[BACKNUMBER]
banner_AD
Loading…

SNS

TBSトップページサイトマップ Copyright© 1995-2020, Tokyo Broadcasting System Television, Inc. All Rights Reserved.