報道の魂
ホウタマ日記
2011年06月10日 なぜ「記者たちの眼差し」なのか? (秋山浩之)
私たちJNNでは、他の報道機関と同様、全国から被災地に記者を派遣して、震災報道を続けてきました。派遣された記者・ディレクターの数は300名を超え、その規模はテレビ放送開始以来の大きさとなっています。

今回、3時間30分のドキュメンタリー「3・11大震災 記者たちの眼差し」を制作することになったのは、これだけの規模の取材態勢が組まれたことの証として、記者たちの取材成果をなるべく多く集めて記念碑的な番組を作れないかと考えたからです。JNN各局に呼びかけたところ、15局から参加希望があり、27名の記者が参加して番組を構成することになりました。

この番組の特徴はふたつ、「オムニバス」と「個人目線」です。「オムニバス」にした最大の理由はなるべく多くの記者報告を集めたいと考えたからです。今回の震災のスケールを考えると、ひとりの記者がフォロー出来る取材範囲は極めて限定的で小さなものです。ひとつひとつの記者報告は“ささやかな事実”にすぎません。けれども大震災とは、無数の小さな悲劇が積み重なった状態であり、様々な角度から見つめてみなければ、実相に迫ることはできません。

今回の番組には27名の記者が参加しましたが、これだけの人数がそろうこと自体に意味があったと思っています。震災の惨禍を可能な限り多面的厚みをもって描きたいと考えたからです。

9・11テロのあと、世界の著名な映画監督が参加して「セプテンバー11」というオムニバス映画を制作しました。歴史に価値転換を迫るような出来事が発生したとき、個々の表現者がどんなことを思ったかを映像で表現し、それを互いに確認しあうことはとても重要なことだと思います。

今回の番組も、視聴者に見ていただくのはもちろんですが、記者たちが互いに「被災地で自分はこう思った」と明かすことで、現場で感じた迷いや悩みを共有する場になったのではないかと思います。悲惨な現場に立って、記者たちは否応なく報道人としての原点を問われます。記者という仕事の意味を自問自答することになります。この番組を通して、記者もまた生身の人間であることをさらけ出すことになりました。

「個人目線」にこだわったわけも、上記のこととつながっています。記者が「何を取材したか」だけではなく、その結果「何を思い、どう受け止めたか」を描くことは、震災と向き合った自分の内面を描くことになります。テレビ報道において「私(わたくし)性」を出すことの是非は議論のあるところですが、これほどのスケールの震災ですから、被災地を取材した記者が無感覚でいられるわけがないわけで、むしろ記者の内面も含んだ報告にした方が誠実かつ自然なものになるのではないかと考えています。

新聞に署名記事があるように、テレビ報道にも署名ニュースがあってよいと思います。しかし、日々のニュースはごく数分の短尺で伝えるものが殆どで、記者個人の思いを伝える余裕はありません。また「おおやけの電波」という意識のせいか、はたまた「危機管理意識」の高まりからか、ニュースやレポートの一項目が放送に至るまでの間に、いくつものチェック機能が働き、記者個人の思いが削られ尖がった部分がなくなることが多々あります。これが内田樹さん言うところのテレビの「巨大であるがゆえの脆弱さ」であり、「自立した個人による制御が及んでいない」状態です。

今回の番組は、そんなテレビニュース批判に対するささやかな抵抗でもあります。被災地に立った記者が、個人の目線から記者報告をおこなうわけですから、報じた内容はすべて記者個人が負うことになります。

取材した事象そのものは刻々と変化して古くなってゆきますが、取材時の記者の思いは簡単には風化しないものです。今回の番組はそのことを証明していると思います。

TBS報道局編集部 秋山浩之
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