報道の魂
ホウタマ日記
2006年10月26日 報道の魂#13「揺れ続けるムラ 〜新潟県中越地震2年の“絆”〜」編集後記 (岩城浩幸)
10月15日放送、「揺れ続けるムラ〜新潟県中越地震2年の“絆”〜」は、10月26日、11月11日、26日、12月10日に、CSのTBSニュースバードで再放送の予定です。

23日、あの地震から2年が経ちました。戸数49の小さな村で、小学生3人の生命が犠牲になった悲劇。しかし、塩谷はなくなっていませんでした。まずは村の人たちに、心からのエールを送りたいと思います。

今も仮設住宅に暮らす人、塩谷に戻らず復興住宅に入る人、そして避難勧告が解けると同時に塩谷に戻った人、これから戻る人…。最終的な塩谷復興の姿は、19戸です。村の人たちが向き合い、静かに闘ってきた過疎が一気に進んでしまうことになってしまいました。

しかし、それまで考えも及ばなかった人々、「地震がなければ知ることが出来なかった人たち」の姿が、塩谷にありました。県内外からやってくるボランティアの人たちは、2年経った今も減ることがありません。そして復興作業を超えた、山村の人々と都市の人々との交流がそこにはありました。文字通りの“絆”。それが塩谷に、しっかりと息づいていました。

この間、塩谷は大きな注目を集めてきました。幼い3人の犠牲と、それは無縁ではなかったでしょう。しかし、それにも増して「小さな村に全国的注目」という現象、それは私にとって、23年前の記憶と重なりました。事の性格は、全く異なります。復興のモデルケースとも言われる今とは正反対に、こんな小さな村になぜ巨額の国費投入かと、批判の集中砲火を浴びたのが当時の状況でした。

絶大な政治力で、圧倒的な額の公共事業を地元に誘致した田中角栄元首相。彼がロッキード事件の判決を控える中で完成した塩谷トンネル。当時の世論は、「新潟三区(旧中選挙区)の人はなぜ刑事被告人の田中に投票するのか」、それを問いました。「恩と利の日本的政治風土」という論文もあれば、「新潟の人たちは政治意識が低いからだ」などといった揶揄もありました。それらの狭間で塩谷は、象徴的なケースと見られたのです。

私は当時の塩谷の中に入って、いわばミクロ分析を行うことにしました。「光の当たらないところに光を当てたのは田中さんだけだ」、「耳を傾けてくれたのも田中さんだけだ」等という声を聞きました。同時に、「トンネルが過疎の歯止めになる」とも。

本編にも登場する当時の塩谷越山会長の関慶司さんも、その一人でした。トンネルができれば、冬も東京などへ出稼ぎに行かずに、小千谷の街などに仕事に通える、そうすれば若い世代が塩谷に定着していける、だからトンネルは他のものには代えられない唯一絶対の死活問題なのだ。雪の降らない地域の人たちにはわかるまい、とも。

つまり、そこにあった問題は「格差」の問題であり、福祉のありかたの問題でもあり、都市と地方の問題でもあり、地域社会のあり方・位置づけの問題でもあり…。田中批判と単純に直結する、新潟の有権者批判という単純な図式が何の解決も生まないことは明らかでした。当時の人々の現状打開の方法論、その良し悪しは措くとして、当時のこのトンネルに凝縮されていた問題は、今の政治でも引き続き中心的な課題となっていることばかりだったのです。

関慶司さんの長男の賢一さんは、「立派なトンネルが出来たからには、何があっても塩谷を離れない。トンネルは手段であって目的ではない」と語りました。その目の前には、父・慶司さんも語っていた過疎の問題がありました。

小学校の廃校、高齢化世帯の増加(進行?)。私は何度か関さんを訪ね、村の未来像や苦悩を聞きました。「ここには何ものにも代えられないものがある。是非知ってもらいたい。伝えたい。でもこの寒村に、どうやったら人が来てくれるだろうか」。静かな叫び声でした。

新潟県中越地震。それは、村から多くのものを奪っていきました。人も、物も。トンネルの脇にあった田中元総理直筆の「明窓の碑」も、地震で倒れたままでした。最近ようやく元の状態に戻され、こざっぱりした碑の周りは、実は直前に友野広徳さんが草を刈ったのだそうです。かつてトンネル建設に奔走した友野さんは、仮設住宅で暮らしています。「あんたたちが来るって言うからさ、あんまり草茫々じゃみっともないと思ってね」と淋しそうに笑います。

その友野さんは、近く復興住宅に入る予定です。「老人2人じゃ、塩谷に戻ってもね…」。田中さんがいたらどうだったですかね?「道路はすぐになおっただろう。でも、家までは建ててくれないからね」。

去る者は日々に疎し、そんな言葉がよぎりました。しかし、一方で以前の塩谷では、誰も考えてもみなかった人たちが集まってきます。トンネルを通って。その絆が強く、そして長くなっていけばいくほど、塩谷の未来は確実なものになっていくでしょう。

ハードとしての塩谷の復興は、まだまだこれからです。番組冒頭にあったとおり、壊れた住宅の撤去すらまだ終わっていません。作付けできた田は、2枚だけ。「だからこそ未来がある」という声を聞きました。そして3人の子供の慰霊塔に草を生やすわけにはいかない、あれは復興のモニュメントなのだとも。

村とは、行政区画だけを意味するものではないはずです。「やむを得ず」に塩谷を離れた30戸の人たちの中にも、錦鯉の養殖池は塩谷で維持していく人たちがいます。盆踊りには、「里帰り」してくることでしょう。そして「絆」の先にある各地の「塩谷人」。

塩谷は今ようやく、トンネルを手段にしつつある、そして最も大切なものを得ているのかもしれない、そんな感想は「村」という字で表現しきれるものではありませんでした。村、邑、邨、群…ムラ。では、ムラとは何なのか、そして、何をもってムラは「復興」したといえるのか。人々も私たちも、その問いの入り口に立ったばかりです。

かくいう私たち取材する方も、事あるごとに塩谷について語り合ってきました。BSNの佐藤記者と現地で口にした言葉、それは「チーム塩谷」。現地に芽生えているチーム塩谷と、取材する側のチーム塩谷。これは、今後も絶えることなく続くことになると思います。

(2006年10月24日記 岩城浩幸 解説委員)
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