報道の魂
ホウタマ日記
2005年11月30日 三島由紀夫ドキュメンタリーの番宣原稿 (小島英人)
番組宣伝の原稿を作成しました。

編集もスタートしました。まだまだほんの冒頭部分がつながっただけですが、日曜の放送に向け編集室にこもる生活がはじまりました。編集担当は、報道特集などでドキュメンタリーを多数編集してきた田中秀和君です。実績、腕のほうは確かです。

腕は確かですが、足を折っています。痛々しい姿で気を遣い、声をよりいっそうかけながらの作業です。編集マンとのコミュニケーションのよしあしは、ドキュメンタリーのできあがりに大きく影響します。

さて、番宣原稿を載せます。

報道の魂 #3 放送日:12月4日 25:20〜25:50 
「英霊漂ふ… 〜三島由紀夫自決・35年目の夢枕〜」
 
当時、楯の会ナンバー2だった本多清は、生き残った。早朝、時々 刀を振る。三島から直接真剣を渡されていた。いつでも死ぬつもりであった。周りから三島の「片腕」と言われ、いい気分だった。

しかし、三島由紀夫の「決起」計画では、外された。隊員の内、彼にだけ遺書があった。三島文学よりわかりにくい言葉が連なっていた。言い訳としか感じられなかった。

なぜなのか…今でも引っかかっている。ずっと考えている。楯の会が解散しても、第二楯の会を結成したこともある。

本多は、実業の道を歩んだ。しかし、苦労は多かった。楯の会の仲間に頼まれ保証人となる。6000万円の負債をしょった。年月が経ち、あれこれ考えている時に思い当たったこともある。2・26事件を巡る見解の相違。

三島由紀夫は先生である。ほとんど考えは一致しているのだが、こと2・26事件となると、くい違った。

三島由紀夫にとっては、青年将校は少年期よりの英雄である。しかし本多は、人を殺した決起を認めていなかった。祖国を防衛するために楯の会に入ったのだ…。そんな言い分を直接ぶつけたことがあった。

2・26事件に入れ込んだ三島は、逆に、英霊たちに、魅入られた!少なくとも、美輪明宏はそう見ていた。事件の年の正月、南馬込の三島邸で、美輪明宏は、三島の背後に青年将校の霊を見た!「磯部浅一」の霊。死刑となった青年将校の中で、天皇陛下万歳を叫ばず、呪いの裡に果てた磯部。磯部が憑いている。美輪が言い当てるのを本多は見ていた。

磯部の霊に突き動かされたからなのか。三島由紀夫自身も納得した。青年将校の呪詛を描いた「英霊の声」では、三島の手は勝手に動いたと三島は語っている。

話を戻すと、2・26事件での見解の相違こそが本多が決起から外された理由だったのか。それを問題にしたのは、三島なのか、あるいは、憑依していた磯部だったのか。三島に問いたい思いが募る。

33回忌も過ぎ、弔い上げも終えた。三島の魂も落ち着いているものと思われる。なぜ、私は外されたのか。ある日、本多は「英霊の声」の趣向そのままに、霊媒のもとへ旅立った…。


【出演】
元楯の会ナンバー2:本多清
最後のインタビュアー:前田宏一
18年来の友人:美輪明宏
文壇の最大の理解者:佐伯彰一東大名誉教授
三島由紀夫写真集のカメラマン:細江英公
三島由紀夫映画「みやび」監督:田中千世子

その他

【製作】
報道局解説専門記者室 小島英人
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