アーティスト紹介

美術、ファッション、音楽―豪華な顔ぶれのアーティストたちが関わったバレエ・リュス

バレエ・リュスは、数々の新しい才能を輩出しました。ロシアのエキゾティシズムとして人気を集めたバレエ・リュスは、やがてピカソやマティス、コクトー、ブラック、ローランサン、シャネルら、当時パリで活躍していた前衛の若手アーティストを取り込み、新しいスタイルの「総合芸術」として、バレエだけでなく美術やファッション、音楽の世界にも革新と興奮をもたらしたのです。本展で展示される主なアーティストの作品をご紹介いたします。

レオン・バクスト(1866-1924)

サンクトぺテルブルクの帝国美術アカデミーにて美術を学び、同校にてロシア写実主義の団体『移動派』の影響を大きく受ける。
1890年にはアレクサンドル・ブノアと出会い、彼を通じてディアギレフとも出会った。
バレエ・リュスが1909年にパリで旗揚げした後、同バレエ団の舞台装置と衣装デザインを、他のどのアーティストよりも多く手がけた。1911〜19年には芸術監督に就任。一時はバレエ・リュスから離れたが、1921年には再び《眠り姫》の舞台装置と衣装デザインを担当した。

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青神

レオン・バクスト
「青神」の衣装(《青神》より)
1912年頃
オーストラリア国立美術館

「青神」を演じたニジンスキーは全身に明るい青のメイクアップをほどこしており、裏地にその青い跡が染み込んだこの衣装は、ニジンスキー個人とのとりわけ密接なつながりを感じさせます。

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シェエラザード

レオン・バクスト
「シャー・ゼーマン」の衣装(《シェエラザード》より)
1910-30年代
オーストラリア国立美術館

バクストが描いたシャー・ゼーマンの衣裳のためのデザイン画は、実際の衣裳に比べてより古風で装飾的である。躍動感溢れる布地の描写により、ダンサーの身体が発する強いリズムを際立たせている。

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ニコラス・レーリヒ(1874-1947)

ディアギレフから《イワン雷帝(プスコフの娘)》、《イーゴリ公》より《ポロヴェツ人の踊り》(1909年)、《春の祭典》(1913年)など複数のバレエ作品の美術を依頼されました。1912年にはモスクワ芸術座のための仕事をはじめ、1920年アメリカに移り、そこでブータン、中央アジア、中国、モンゴルへの調査団を組織します。1928年にはクル渓谷にヒマラヤ研究のためのウルスヴァティ研究所を設立し、翌年、武力紛争の際の文化財の保護に関する条約(レーリヒ条約とも呼ばれる)を起草しました。これが最終的には1954年に採択されるハーグ条約の基礎となりました。

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《イーゴリ公》の《ポロヴェツ人の踊り》

「ポロヴェツ人の少女」、「ポロヴェツ人の戦士」の衣裳(《イーゴリ公》の《ポロヴェツ人の踊り》より)
1909-37年頃
オーストラリア国立美術館

1909年5月、パリのシャトレ座で鮮烈なデビューを果たしたバレエ・リュス。その時、演じられた演目のひとつがこちらの作品です。ロシアの歴史的叙事詩を題材にアレクサンドル・ボロディンが書いたオペラ《イーゴリ公》の第二幕、舞踊場面で構成されたこのバレエは、パリの観客をロシアの歴史世界へといざないました。美術・衣裳を担当したニコラス・レーリヒは、ロシアの民俗芸術と遊牧民族の歴史に注目し、ポロヴェツの夜の野営陣地の煙たさを感じさせる薄暗い舞台装置と、それとは対照的に万華鏡さながらの鮮やかな模様の衣裳を組み合わせました。

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アレクサンドル・ゴロヴィン(1863- 1930年)

ディアギレフとゴロヴィンは1908年から13年の間に共同制作《火の鳥》(1910年)などを手がけました。また、ロシアに戻ってからはサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキー劇場で《仮面舞踏会》(1917年)のデザインを担当し、それ以降は亡くなるまで、ロシアやヨーロッパで主に舞台装置のデザイナーとして活動し、ロシアでは1927年からモスクワ芸術座のデザイナーを務めていました。

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《火の鳥》

アレクサンドル・ゴロヴィンはディアギレフにいくつかのロシア民話を組み合わせてブノワとフォーキンが台本を創作した《火の鳥》の舞台美術を依頼しました。ゴロヴィンの衣裳は、伝統的なスラヴの祭りで男性も女性も着用する衣裳から影響を受けたもので、白い生地を紐ベルトでくくったチュニックは、豪華な絹紋織や組み紐に似せた模様を淡い色のステンシルで染めたものでした。フープつきのオーバー・ドレスの縁がチュニックのアンダー・スカートの上に重なり、衣裳に浮遊するような別世界の雰囲気を与えています。ゴロヴィンがこの作品のために、一貫性のあるデザインを構築したにもかかわらず、ディアギレフは、「火の鳥」「ツァレーヴナ王女」「イワン王子」の衣裳に満足せず、レオン・バクストに依頼して新しくデザインし直させました。ディアギレフは1926年に《火の鳥》を再制作するにあたり、新しい舞台美術と衣裳をナタリヤ・ゴンチャローワに依頼し、そのいくつかは1910年のオリジナル衣裳に、新たな装飾やアップリケを加える手直しがされています。

1.アレクサンドル・ゴロヴィン、レオン・バクスト
「不死身のカスチェイの従者」の衣裳(《火の鳥》より)
1910年
オーストラリア国立美術館

2.アレクサンドル・ゴロヴィン、レオン・バクスト
「王女」の衣裳 (《火の鳥》より)
1910年頃および1934年頃
オーストラリア国立美術館

(写真) (写真)

ジョゼ=マリア・セール(1874- 1945)

1914年に、ディアギレフからバレエ・リュスのデザイナーとしてロシア人以外では初の指名を受けました。バレエ・リュスのための仕事は、《ヨゼフ伝説》の舞台背景のデザインが最初で(この時の衣裳のデザインはレオン・バクストによる)、続けて二つのディアギレフ作品、《ラス・メニナス》(1916年)と《女の手管》(1920年)の美術を担当しました。1929年にディアギレフが亡くなってからも、バジル大佐が再興したバレエ・リュス向けの制作を続け、1940年には《パヴァーヌ》のデザインを手がけました。

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《女の手管(チマロジアーナ)》

ジョゼ=マリア・セール
ドレス (《女の手管》より)
1920-24年
オーストラリア国立美術館

このバレエ作品は、1920年にディアギレフが制作したドメニコ・チマローザ作曲のオペラ《女の手管》の幕間のバレエとして振り付けられた作品で、後に1924年にバレエ作品《女の手管》という独立した演目として上演されました。1924年4月24日にバルセロナで上演され、以来《チマロジアーナ》という演目名で知られています。

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ゲオルギー・ヤクーロフ(1882年-1928年)

1925年ヤクーロフはパリでパリ万博に作品を展示しました。そしてディアギレフから依頼を受け、バレエ・リュスの作品《鋼鉄の踊り》のデザインを手がけ、同作はサラ・ベルナール劇場で1927年に上演され、翌年ロシアで亡くなりました。

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《鋼鉄の踊り》

ゲオルギー・ヤクーロフ
「女性労働者」の衣裳(《鋼鉄の踊り》より)1927年頃
オーストラリア国立美術館

このバレエの筋書は、ソヴィエト連邦が工業国家へと変貌していく隠喩です。衣裳は、非対称に裁断された労働着で、馬の人工皮革やごわごわとして飾りのない、さび色や鼠色や青の布地が用いられました。その上に、1920年代「アメリカの布」として知られた合成皮革のエプロンをかけています。このバレエは、パリにいた反ボリシェビキのロシア人亡命者の観客には人気がありませんでした。

(写真)

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