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BACK NUMBER #728 2020.8.15 O.A.

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元サッカー日本代表の第二の人生 平山相太/巻誠一郎
かつて高校サッカー史上No.1プレーヤーと呼ばれた男、平山相太。そんな平山は、2018年の春、32歳の時、宮城県の仙台大学に入学、一回り年下の学生たちと講義を受けている。かつて怪物と呼ばれた男が一体なぜ大学生なのか。そこには大学生として専門知識を学び、現役以上に高い目標を抱き、挑戦する男の姿があった。2004年の全国高校サッカー選手権で、全国制覇を果たした国見高校のフォワードとして得点王に輝き怪物と呼ばれた、平山。高校3年間で全国制覇と準優勝を経験。史上初の2大会連続得点王、通算ゴール数歴代最多17得点をあげ、未だ破られていない偉業を成し遂げた。日本中が彼の活躍に熱狂した。卒業後、複数のJリーグクラブからオファーが届いたが、平山は大学への進学を選んだ。その後、ユース年代の代表での活躍を見た海外クラブからオファーを受け、大学を休学し2005年8月、20歳でヨーロッパへと渡った。そして、驚異のスーパーゴールを見せつけ、1年目、チーム最多の8得点を挙げる活躍。平山はいち早く世界で名を上げ、同世代のトップランナーとして誰もが日本代表のエースストライカーになると確信していた。だが、平山はわずか1年で戦力外通告を受けた。オフシーズン後のコンディション不足などを理由にクラブの会長から「必死さが足りない、出て行っていい」と厳しい現実を突きつけられた。平山は帰国後、FC東京へ移籍。2010年24歳のとき日本代表に4試合呼ばれたものの、当時の平山は代表として大きな目標を持っていなかった。平山はかつての輝きを失っていた。同世代の本田や長友はその間海外挑戦を続け、高い意欲と目標を持ち、世界のビッグクラブで戦っていた。2018年に現役を引退した平山は宮城にある仙台大学の学生としてある目標をもち第二の人生を送っていた。平山は学生であり仙台大学サッカー部のコーチでもあった。新たなスタートを切った平山が目指す場所はJリーグの監督だ。
そしてもう一人、かつて、Jリーグや日本代表で数々のゴールをあげてきた、巻誠一郎。巻は熊本県宇城市出身、引退後故郷へと戻り、妻と3人の息子と暮らしている。かつて日本代表として戦ってきた男は、故郷熊本で一体何をしているのか。そこには2016年に起きた、熊本地震が大きく関係していた。熊本県の強豪・大津高校から駒澤大学へと進学した巻は卒業後、ジェフユナイテッド市原に入団。利き足は頭。そう公言し、どんなボールにも飛び込んでいく。そんな巻が最も評価されていたのは、チームの為に全力で戦い続ける姿だった。2005年、当時24歳の巻は日本代表に初招集された。翌年のドイツワールドカップへ向け、熾烈なメンバー争いが繰り広げられる中、他のメンバーよりも実績の劣る巻は当落線上と言われ、選ばれる可能性は低いと予想されていた。しかし、代表発表の瞬間、サプライズは起きた。当確とされていたエース久保竜彦の落選、巻の選出に列島は驚き号外まで配られた。ジーコはチームのために全力で戦い続ける巻を高く評価していた。その後は、海外を含む複数のクラブを渡り歩き、2014年33歳の時にJ2のロアッソ熊本に移籍。故郷に戻ってきた。巻は熊本出身のサッカー選手として初めてワールドカップのピッチに立った、熊本の誇り。その男が故郷のサッカーを盛り上げようと立ち上がった。だがその矢先、悲劇が起こった。2016年4月。熊本地震が発生。故郷に大きな爪痕を残した。プロサッカー選手として何が出来るのかを考えた。地震発生から3ヵ月もの間、ほぼ毎日、避難所を訪れ支援物資を届けた。その後、巻は熊本で3年間プレーを続け、38歳で引退。故郷で第二の人生を歩んでいる。巻は地震をきっかけにNPO法人を立ち上げ、今も復興支援を続けている。さらに、フットサルスクールの経営や各地での講演会など、熊本で地域振興を目的とした実業家として幅広い活動を行っている。そして農業も始め、フィリピンやベトナムから来た技能実習生たちが農業を学び、働ける場として市の農協と連携している。さらに、熊本だけにとどまらず、プロサッカー選手としての原点、千葉でも社会貢献のプロジェクトを立ち上げた。巻は元サッカー日本代表という誇りを胸に今も走り続けている。
サッカーで日本を盛り上げた男たちの、新たな挑戦はまだ始まったばかりだ。
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