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内藤大助プロフィール

内藤大助スリヤン・ポーチョクチャイ

スリヤン

内藤大助

第36代WBC世界フライ級王者
(WBC世界フライ級3位)
生年月日
1974年8月30日 生まれ
出身
北海道
プロ通算戦績
41戦35勝(22KO)3敗3分
タイプ
左右フック主体の右ファイター
所属
宮田ジム

略歴
1996年10月11日、プロデビューを1RKOで飾る。
1998年12月19日、全日本フライ級新人王決定戦で福山登に1RKO勝ちし、9勝1引分で新人王を獲得。
2001年7月16日、坂田健史の持つ日本フライ級王座に挑戦し、引き分けで王座獲得ならず。しかし、この試合は内藤の勝利を支持する声も多く見られた。
2002年4月19日、タイでポンサックレック・シンワンチャー(タイ)のWBC世界フライ級王座に挑戦するが、世界フライ級タイトルマッチ史上最短の1R34秒KO負けを喫する。しかし、復帰戦でKO勝ちその後も順調に勝ち進みランキングを上昇させてゆく。
2004年6月6日、中野博の日本フライ級王座に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得。
2004年10月、小嶋武幸を相手に日本王座の初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収める。
2005年10月、WBC世界フライ級王者ポンサクレック_に2度目の挑戦をするも、7R負傷判定で敗れ、世界王座の獲得はならなかった。
2006年6月、東洋太平洋フライ級王者小松則幸と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠を達成する。
同年12月には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛に成功している。
2007年2月、自身の負傷および、日本・東洋王座の防衛戦の兼用の厳しさを理由に東洋王座を返上。以降は日本王座を防衛しながら3度目の世界挑戦を表明。
2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、王者ポンサクレックに12R判定勝ちし雪辱を果たす。世界初挑戦から約5年、ついに悲願のチャンピオンベルトを手にする。
2007年10月11日、初防衛戦を行い、WBC世界フライ級14位の亀田大毅に3-0の判定で勝利。
2008年3月8日に両国国技館で、2度目の防衛戦で前王者ポンサクレックと4度目の対戦。試合は12R判定でジャッジは内藤勝利1、ポンサクレック勝利1、ドロー1で引き分けとなったため、規定により2度目のタイトル防衛を果たす。
2008年7月30日、国立代々木第一体育館で行われた3度目の防衛戦で清水智信(金子)と対戦。試合は9Rまでのポイントで清水にリードを許す苦しい展開も、10Rに起死回生の左フックで清水をぐらつかせると、一気にパンチをまとめて清水をマットに沈めた。鮮やかな逆転KO勝ちで3度目の防衛に成功。
2008年12月23日、同級13位の山口真吾と対戦。終始前に出てくる挑戦者相手に打ち合いで応戦。激しい攻防戦になるが、確実に有効打を重ねた内藤が、11R山口からダウンを奪いTKO勝利を収め、4度目の防衛を飾った。
2009年5月26日、中国のハードパンチャー熊朝忠と史上初の中日世界戦が実現。6Rに熊の強烈な右フックでダウンを奪われるも、試合を終始優勢に進めた内藤が判定勝利。5度目の防衛に成功した。
そして迎えた2009年11月29日、“世紀の一戦”と称された亀田興毅との対戦。終始積極的に攻める王者・内藤に対しカウンター狙いの戦法を取る挑戦者・亀田が着実にポイントを稼ぐ展開となった。結果、判定で亀田が勝利、二階級制覇を達成した。敗れた内藤は世界フライ級の日本人選手新記録である6度目の防衛に失敗、2年以上にわたり死守してきた世界王座から無念の陥落となった。
王座陥落後、自らの進退について2ヶ月もの間“沈黙”を貫いていたが、遂に2010年1月29日、「現役続行」を宣言、再び世界王者を目指すことになった。

ボクシングスタイル
独特のリズムと多彩なフェイントで相手に的を絞らせない。左右のフックに威力を持つ右のファイター。最近の試合では足を使った出入りの激しいボクシングも展開している。
現在のトレーナーは対戦相手の分析とトレーニング理論に定評のある野木丈司氏。

国民的人気ボクサー
中学時代に凄惨ないじめを受け、それが原因で胃潰瘍になったという。いじめを克服したい一心で始めたボクシングだったが、そのたぐいまれな運動能力と不屈の精神力で世界の頂点を極めた。
また、亀田大毅戦後はメディアへの露出が急激に増え、その親しみやすいキャラクターから、老若男女を問わず圧倒的な支持を得る国民的人気ボクサーとなった。