8月4日開幕

世界陸上で生まれた世界記録27

女子棒高跳び初代チャンピオンはアメリカのロデオ・ガール
棒高跳び史上最多の15跳躍目での世界新&金メダル

陸上競技には男子だけの種目がいくつかあったが、1980年代に1万mやマラソンなど女子長距離種目が行われるようになり、1993年世界陸上シュツットガルト大会から女子三段跳びが、そして1999年セビリア大会から女子棒高跳びとハンマー投げが実施されるようになった。
残るは女子3000m障害と50km競歩だけとなり、2005年ヘルシンキ世界陸上から3000m障害も始まっている。

女子棒高跳び初の金メダル候補は4m60の世界記録を、その年の2月に跳んだE・ジョージ(オーストラリア)だった。だが、ジョージは故障明けでの強行出場となり、4m15で最下位に終わった。セビリアで初代チャンピオンとなったのは、“陽気なアメリカ娘”ステーシー・ドラギラで、優勝記録は4m60の世界タイだった。
「世界新ではなかったけど、金メダルの方が喜びは大きいわ」

ドラギラはカリフォルニア州のオーバーンという田舎町に生まれ、実家は牧場を経営していた。ドラギラは兄たちとロデオに夢中になり、空中での身のこなしはその頃に養われた。高校・大学では100mハードルや七種競技をしていたが、1995年に棒高跳びで3m70を跳ぶと、翌96年に4m20、97年に4m45と記録を伸ばした。98年は4m42と足踏みしたが、初の世界大会開催年にしっかりとピークを合わせた。

だが、ドラギラの世界記録は、史上稀に見る“難産”だった。
4m60を跳んだのは、この日15回目の試技。個人差のあるところだが、ヒト桁回数の試技でその日の最高記録を跳ぶのが良いとされている。跳躍種目でも疲労が出たり、身体の各部位にダメージが出たりするからだ。

世界記録を跳んだときの最多試技回数は過去、男子のC・ホッフ(ノルウェー)が1922年に4m12を跳んだときの13回だった。また、女子初の4m60をジョージが跳んだときは7回目、エレーナ・イシンバエワ(ロシア)の5m00は5回目、イシンバエワの現世界記録の5m06は3回目だった。
これはセビリア大会のバーの上げ方が、4m35から5cm刻みだった結果である(4m35までは10cm刻み)。その後の大会では5cm刻みになる高さは徐々に上がっていき、前回のモスクワ大会では4m75までは10cm刻みで上げられている。

選手たちも初めての実施ということで、低い高さから慎重に跳んでいった。また、この日のドラギラが4m25、40、45と1回、4m50は2回失敗するなど、失敗試技を繰り返したことも一因だった。
「(跳べなかった4m65も含め)18回も跳ぶ予定ではなかったんです。今日は技術に自信を持てない点があったので、こういう試技内容になってしまいました」

ドラギラは翌年のシドニーでも五輪初代金メダリストに。そのときも優勝まで11回の試技を要したが、2001年の世界陸上エドモントン大会では8回の試技で2連覇。同じ年に4m70の世界新をクリアしたときは7回目だった。
セビリアでは長時間決戦にもかかわらず、世界記録を出したことで初代チャンピオンとなったドラギラ。彼女のその後の活躍は、女子棒高跳びの進歩に対応したことを示していた。

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