8月4日開幕

世界陸上で生まれた世界記録27

ジョンソン自身も“待ち続けていた記録”
史上2人目の200m&400m世界記録保持者に

「長い間、“待ち続けていた記録”だった」
マイケル・ジョンソン(アメリカ)の言葉に、思いのほどが現れていた。

ジョンソンと世界陸上の関わりは長い。1991年の東京大会200mで初タイトルを獲得し、93年のシュツットガルト大会で“ジョンソン時代”の幕開けを宣言した。

95年のイエテボリ大会では世界陸上初の200mと400mの2冠を達成し、翌年も同様に、アトランタで五輪史上初の2種目制覇。アトランタ五輪で200m世界記録をマークし、残るターゲットは400mの世界記録になった。
だが、99年はジョンソンも32歳になるシーズン。97、98年と43秒台前半のタイムはなく、200mでも20秒が切れなくなっていた。セビリア大会1カ月前のストックホルムの試合(現在のダイヤモンドリーグ)では途中棄権し、前年から続いていた連勝記録も途切れてしまった。
それでもセビリアに乗り込んだジョンソンは強気だった。「(ストックホルムの後)2日間休んだだけで、すぐに回復した。アトランタ五輪以後では最高の状態なんだ」と会見でコメント。疑う向きもあったが、それが事実であることを走りで証明した。

幸いだったのは、ロングスプリントの“ジョンソン時代”は続いていたこと。当時、ジョンソン以外に43秒台を出せそうな選手は見当たらず、自分のペースで世界陸上に合わせれば金メダルは間違いなかった。記録的に停滞した97~98年も、世界陸上&五輪と続く99~00年にピークを持っていくための計算だったかもしれない。

むしろ、レース終盤で競り合う相手がいないことが、世界記録誕生を阻んでいたようにも見えた。セビリアでも、300mを31秒66で通過すると独走になり、敵は記録だけになった。ジョンソンが最も強さを発揮するのは200mから300だが、この日は世界記録への執念が、最後の直線でもジョンソンの脚を動かした。

「この大会は世界記録のチャンスだと思っていたんだ。スタジアムも観客も、最高の雰囲気だった。スタートして次の瞬間には、出せると確信して走っていた」
200mと400mの世界記録を樹立したのは史上2人目の快挙で、翌年のシドニー五輪でも400mで金メダルを獲得。それを最後にスパッと競技から引退した。43秒台を出したシーズンを最後として一線を退いた選手は、ジョンソン以外に存在しない。

スプリント人生の晩年を、これほど華麗に走り抜けたスプリンターはいないと思う。その象徴がセビリアの世界記録だった。

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