8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

日本投てき界史上初のメダルは、“父子鷹”室伏が達成。五輪金メダリストと名勝負を展開

世界陸上・五輪を通じ、日本投てき種目初のメダル獲得という歴史的な快挙だった。にもかかわらず、室伏広治(ミズノ)は「メダルを取った実感はない」と言い切った。当時の室伏の、競技へのスタンスがそこに表れていた。

優勝したS.ジョルコフスキ(ポーランド)が1投目に81m88で先制パンチを放ったが、室伏が2投目の82m46で逆転。2人とも前年のシドニー五輪優勝記録(80m02=ジョルコフスキ)を大きく上回った。室伏は3、4投目も81m台を続け、優位に試技を進めていた。
だが、ジョルコフスキが5投目に83m38と、自己記録を91cmも更新する大アーチを投げてきた。室伏も直後の5投目に82m92と記録を伸ばし、6投目も82m61と安定感では上回ったが、再逆転はならなかった。投てき種目は、大舞台になるほど自己新を出すのは難しい。ジョルコフスキが見事だった。

「5投目も、順位のことは気にしないで投げました。全力で投げることが重要で、そのためには順位を狙う気持ちは邪魔なのです。負けたとわかったときも、今回は満足感が大きかった。夢中で試合をやった感覚しか残っていません」
6投目が終わると、2人はそれぞれの国の国旗を持って場内を1周した。

父親の重信氏は“アジアの鉄人”と呼ばれた選手で、アジア大会に5連勝した。世界陸上にも第1回ヘルシンキ大会(1983年)に37歳で出場している。室伏は1998年に、父の持っていた日本記録(75m96)を更新したが、「世界に出て行くためには更新しなければいけない記録」と、それほど喜ばなかった。

高速ターンや、回転中に軸を背面方向に倒す父譲りの技術を武器に、2000年に80mを越えて世界のトップ選手の仲間入り。だが、メダルも期待された同年のシドニー五輪は、9位に終わった。距離は十分に出ていたが、ハンマーが左側のラインの外に落ち、76m60でベストエイトに残れなかった。
ベンチでうつむく表情には、自身への苛立ちがありありと見て取れた。エドモントンのコメントから推測すると、順位を強く意識するあまり、自分のやりたい投げができなくなってしまったのだろう。

当時すでに、トレーニングは26歳の室伏自身が考えて実行していたが、このときは重信氏のアドバイスも大きかった。扇形の着地ゾーンの中央に投げる技術を伝授したのである。そのことで力を一点に集中させられるようになり、記録も伸びた。

2001年7月に83m47のアジア新記録をマークした室伏は、シーズンランキング1位で世界陸上に臨んだ。80m以上も5試合。このこと自体、日本のトラック&フィールドでは快挙と言って良い。前年の実績から、優勝候補筆頭には挙げられなかったが、室伏は独自の集中の仕方で結果を出した。
「日本の投てき初のメダルでしたが、1968年のメキシコ五輪ハンマー投では石田義久さんが4位とメダルに迫りました。オヤジも世界にチャレンジしてきたし、溝口(和洋)さんは世界陸上で6位になった(1987年ローマ大会やり投。投てき種目初入賞)。自分はオヤジや溝口さんから、成功談も失敗談もたくさん聞いています。日本の投てきの伝統は細くてもつながってきました。色々な人の布石があったから今の自分があるのです」

自身の内面に向かってすさまじいまでの集中力を発揮して獲得したメダルだが、その背景には日本投てき界の伝統の力があることを、室伏もしっかりと認識していた。

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