8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

意表を突いた先行策で8位入賞。世界記録誕生4年前に、鈴木が決意表明をしたレース

誰が鈴木雄介(富士通)の先行策を予想しただろうか。
当時1時間20分06秒の学生記録を持ってはいたが、世界記録とは約3分の差があった。2年前のベルリン大会は42位。10位台を確実に目指すポジションと思われていた。

五輪&世界陸上ではスローな展開から、後半の大きなペース変化で勝敗がつくことが多い。
だが鈴木は、自分のリズムで押し切る展開の方が順位はよくなると考えた。幸いだったのは、イタリアのG.ルビーノが飛び出してくれたこと。
「他の選手と同じように、後半勝負をしても勝てない」と、ルビーノに並んだ。9kmでルビーノが後退して独歩になったが、鈴木にひるむ様子はない。10kmでは2位集団に35秒もの差をつけていた。

鈴木はテグ大会に懸けていた。
09年ベルリン世界陸上は前述のように42位、10年のアジア大会も5位。「メダルを取りたい」と、競歩を始めた頃から考えていた鈴木にとって、耐えがたい結果だったのだ。
05年世界ユースと06年世界ジュニアでは、2年連続で銅メダル。それがシニアになると通用しなくなってしまった。
「テグとロンドン五輪のどちらかで入賞ができなかったら、その先にメダルを取ることもできない。結果を出せなかったら競歩をやめるつもりでした」
低迷した間も、そのうち自分のレベルも上がっていくと考えていたところがあった。それを改め、日常生活から競歩に取り組む姿勢を改めた。

11年は2月の日本選手権で初優勝し、5月のワールドチャレンジ競歩セストリエ大会(イタリア)でも5位と健闘した。そして8月のテグでは、「入賞するにはあの方法しかなかった」という先行策を敢行したのだった。
しかし10kmを過ぎると後方の集団も追い上げを開始。14km過ぎで抜かれたが、それは鈴木も予想していたこと。自分を抜いていった人数を1人、2人と数え、8位入賞ラインぎりぎりで踏みとどまった。

8位は20km競歩では、2001年エドモントン大会の柳澤哲以来の入賞。
50km競歩と比べ世界との距離が大きいと言われていたこともあり、日本国内にも驚きがあった。
テグの入賞で翌年のロンドン五輪代表に内定したが、意気込んで練習のレベルを上げたことでひざを故障。トレーニングにも数カ月は影響が出た。ロンドン五輪でも後半勝負は難しいと判断して先行策をとったが、後半は落ち込んで36位に終わった。

五輪後は「故障をしない身体づくり」にいっそう力を入れ、それまでのプログラムに加えて新たな体幹トレーニングも取り入れた。その結果、故障の予防だけでなく、肩甲骨など上半身の動きと、下半身の動きの連動も良くなっている。
翌13年は1時間18分34秒とランキング1位でモスクワ世界陸上に出場。
後半にペースアップするレースをしたいと考えていたが、調整ミスで直前の状態が上向かなかったため、やはり先行策を取った。だが後続を引き離せず、12位と入賞も逃す結果に終わった。
その反省から、今年の北京世界陸上には「完璧な仕上げをしようとは思わない。8割で良い」と、余裕を持って調整している。メダルの可能性はかなり高いといえるだろう。

テグの8位入賞は、ここから世界のトップを目指して行くぞ、という鈴木の決意表明の意味もあった。それから4年。鈴木は金メダル狙うレースをする決意だ。

一覧に戻る

このページのトップへ