8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

投てき史上2人目のメダルは、シーズン世界リスト35位からの快挙。村上を変えた前年の北京五輪の経験

銅メダルが確定しても村上幸史(スズキ)は、「オレが?」という表情と仕草を繰り返した。
「目標は入賞で、メダルを取るなんて1%も考えていなかった」ため、自分の順位を正確に把握していなかったのだ。
「正直、どう喜んでいいのかわかりません。良い試合ができたな、という思いはありますが…」

まぐれの“一発”ではなかった。 2日前の予選A組を83m10の日本歴代2位、五輪&世界陸上日本人最高記録で1位通過した(全体2位)。決勝は1投目こそ74m87と失敗したが、「修正すべき点がわかっていたので」と、余裕の表情を見せていた。

2投目は予選の83m10と、同じ感覚を再現することだけを意識した。そのシーズンは身体の左側に意識を置くことで、「絶対的な“核”を持てていた」という。投げの局面で上半身が早く左側に開くことを抑えることに成功していた。
その2投目が82m97と、自己ベストに迫る快記録。
ベストエイトの試技順が後ろから3人目で、その時点では3位と把握したが、「絶対に抜かれる」と思い込んでいた。4投目以降、自身は記録を伸ばせなかった。例年なら、82m台はメダルに届かないレベルなのだ。
だが、ベルリン大会はスタジアム上空の風の影響か、やりを高く投げるタイプの選手が伸び悩んだ。その点で村上は元々、やりの軌道が低い。
「僕は自分の投げをすれば良かった」

2004年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界陸上、07年大阪世界陸上、08年北京五輪と予選落ちが続いていたが、あきらめずに挑戦し続けた村上に、天もやっと味方した。
予選落ちを続けていたとはいえ、村上は確実にステップアップしていたし、経験を力に変えられる選手に成長していた。ベルリンのウォーミングアップ中は、それ以前と感じるものが大きく違った。
「この選手は今日、このくらいまでしか投げられないだろうな、とか、今日は動きが良くないな、というところがわかりました。だったらこのくらいを投げれば、予選を通過できる。落ち着いて臨むことができました」

村上は当時29歳。
村上が卒業後も専任コーチとして指導してきた濱元一馬先生(今治明徳高)は、前年の北京五輪で村上が競技をやめるかもしれないと感じた。だが、村上自身は別のことを北京で考えていた。
予選A組で8位だった村上は、濱元先生や友人たちと一緒に、B組の試合をスタンドで見守っていた。AB2組合わせて12位以内なら決勝に進めるが、可能性は低かった。それでも濱元先生は、あきらめずに村上の予選通過に一縷の望みを持ち続けたという。
それが村上の心に響いた。
「自分が13位に落ちてしまったときの雰囲気が、なんとも言えないやりきれなさでした。この人たちを二度と、こういう気持ちにさせたくない。そう思ったのです」

村上は変わった。
自分のために競技をする意識が強かったが、それからは応援してくれる人や、支えてくれる人のため、という気持ちが強くなった。結婚して子どもが生まれたことも、その気持ちに拍車をかけた。
気持ちが変わると、期待されることがプレッシャーではなく、力になると感じられた。それ以前は他の選手の技術など気にかけなかったが、北京五輪後は動画を繰り返し、食い入るように見たという。
 中学では剛速球投手として将来を期待されたが、高校から陸上競技に転身した。1人でやって、その結果が自分に跳ね返ってくる方が気楽だと考えたからだ。
「でも、陸上競技も1人じゃなかった」
村上の競技生活のすべてがつながって、初めて取ることができたベルリン世界陸上の銅メダルだった。

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