8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

師弟間の信頼。尾崎好美、山下監督と同じ色の銀メダルを獲得

元々脚が長い選手だが、ベルリンの尾崎好美(第一生命)はさらに長く見えた。より根元に近い部分から動かせていた、ということだろう。 「仙骨(腰の中心部分の骨)をポイントに入れる感覚で走ろうと意識してきましたが、疲れが出ると腰が落ちてしまっていました。ベルリンではそれが一番上手くできて、我ながら“綺麗だな”と思って走っていました」

25kmまでの5kmは17分42秒とスローだったが、30kmまでは17分03秒、35kmまでは16分30秒にペースが上がった。集団の中で走っていた尾崎だが、このペース変化も自分のリズムとできていた。

先頭集団の人数は30km過ぎに4人に、35km手前で3人に絞られていた。
40kmで尾崎が勝負に出てA.メルギア(エチオピア)を引き離したが、白雪(中国)は振り切れない。逆に41kmで白にスパートされ、付くことができなかった。2時間25分25秒で銀メダル。
奇しくも18年前、尾崎を指導する山下佐知子監督も、W.パンフィル(ポーランド)に差を付けられ始めたのが41kmだった。
しかし、敗れたとはいえ、師弟での銀メダルは見事のひと言だ。
尾崎は「監督を超えられませんでしたが、追いつくことができました」と、嬉しそうに話した。

尾崎のマラソンランナーとしての成長は、決して順風満帆だったわけではない。
トラックの日本選手権で入賞したり、駅伝の1区で活躍することはできても、なかなかマラソンまで距離を伸ばせなかった。初マラソンは2008年3月の名古屋国際女子。入社8年目の終わりで26歳になっていた。

そこからは08年11月の東京国際女子に優勝(2時間23分30秒)、09年8月の世界陸上銀メダルとトントン拍子。練習内容や動きの部分など、それまで積み重ねてきたことが開花したわけだが、師弟の信頼関係が強くなったことも背景にあった。
「お互いに、言うべきことを言い合えるようになりました。以前は痛みを隠して練習していたこともありましたが、素直に言った方がプラスになる。3年くらい前から、大きな故障はしなくなりました。監督は食事やコンサートなどにも連れて行ってくださいますが、そういうときにさりげなく話ができる雰囲気を作ってくれます」

実際には世界陸上前、3月末に腰を痛めていた。場所がふくらはぎや足首ではなく腰だったこともあり、4月いっぱいは完全休養に近い形で休み、5月から徐々に走り始めた。
初の代表レースを控えて勇気が要る決断だったが、それも師弟の信頼関係があったからできたことだろう。

山下監督は選手に、自分と同じ練習メニューを課しているわけではないという。
「この選手だったらどう仕上げていくのがベストか」という部分を起点に逆算して考える。練習の走行距離も月間何kmと規準があるわけではなく、その時点でどのくらい走れば良いか、という発想の仕方をする。
師弟間の信頼と山下監督の柔軟な発想が、同じ色のメダル獲得につながった。

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