8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

38秒03の着順別世界最高タイムでメダルに肉薄。“チーム朝原”集大成の2シーズンの始まり

地元観衆が熱狂的な声援で、メンバー4人の背中を後押しした。
メダルには惜しくも届かなかったが、38秒03のアジア新は、5位の着順別タイムでは世界最高記録。4チームが37秒台で走った激戦に日本も加わった。

2走の末續慎吾(ミズノ)の復活が原動力となった。パリ世界陸上銅メダルの実績から期待が大きかったが、200mは2次予選落ちに終わった。レース中に痙攣を起こし、レース後には激しい頭痛にも見舞われた。
だが、出場を危ぶまれたリレーで、末續はメダリストの走りを見せた。
1走の塚原直貴(東海大)からバトンを受け取ると、外側から2つめの8レーンを、外国チームを引き連れるように疾走した。区間タイムは9秒09でアメリカには勝っていたし、ジャマイカのU.ボルトとも0.04秒しか違わなかった。
今でこそ36秒台の世界記録を持つジャマイカだが、当時はボルトと100m世界記録保持者のA.パウエル以外はそれほどでもなく、大阪でも1走で出遅れていた。 末續はボルトの追い上げを許さず、ブラジル、イギリス、アメリカとトップ争いをしていた。
「一瞬、トップに立てたと思うし、アメリカとジャマイカがフルメンバーになっても、予選と同じ距離感で走ることができた」

優勝したアメリカは3走に、大阪大会100m&200m2冠のT.ゲイを配し、銀メダルのジャマイカは4走にパウエルを起用していた。ゲイは9秒05と曲線では信じられないようなタイムで走り、パウエルは8秒84と歴代最速に近い区間タイムで走った。
日本は3走の高平慎士(富士通)から4走の朝原宣治(大阪ガス)へのパスで、朝原の手にバトン入らず渡し直した。それでも朝原は、ブラジルとイギリスを追い込み、4位のブラジルまで0.04秒と迫る見せ場を作った。

この4人は翌年の北京五輪では銅メダルを獲得。
五輪トラック種目では80年ぶりの快挙を成し遂げた。1990年代に100mで日本人初の10秒1台、そして10秒0台とパイオニア的な存在だった朝原が大黒柱で、アンカーを走り続け、人柄的にも尊敬を集めていた。
2000年代に入って末續が200mで世界のトップレベルに成長し、04年アテネ五輪からは“冷静な3走”高平がメンバーに定着。06年からは塚原が100mで日本選手権に3連勝し、リレーではプレッシャーの大きい1走で斬り込み隊長の役割を果たし始めていた。
走順が固定されることで、バトンパスの成功率が高くなる。前の走者の好不調を瞬時に判断し、自身が出るスピードを調整できたし、チームワークの良さは、思い切ってスタートを切ることにつながった。大阪と北京の日本は、“チーム朝原”とまで言われた。

着順としては、01年エドモントン世界陸上と04年アテネ五輪が4位で、それよりも下だったが、世界のトップと最も競り合ったレースだった。38秒03でメダルを取れなかったのは、世界陸上史上2回目のこと。
朝原はメダルを逃した悔しさより、観衆の声援の大きさと、それと一体となって走れたことに感動していた。
「このタイムでメダルを取れなかったら仕方ない、と思えたし、みんなが力を出せたレースだったので、メダルを超越した充実感がありました」
それを目の当たりにした観衆も、選手たちと一緒に酔いしれることができた真夏の夜だった。

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