8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

世界陸上初のトラック種目2個目のメダル獲得。悪天候を味方とし、再び驚異的な勝負強さを発揮

為末大の2個目の銅メダルは、4年前とは対照的なメダル獲得だった。
エドモントンは「レース内容をあまり覚えていない」ほど、無我夢中で取った。ヘルシンキでも精神的に高揚していたのは同じだが、悪天候のなか計算したレースができた。経験に基づいた戦術を、勝負所で発揮したのである。

エドモントンでは準決勝を全体2番目のタイムで通過し、為末自身はメダルも予測できたという。それがヘルシンキは準決勝8番目の通過で、為末本人も決勝は6~7位と予想していた。
「でも、雨が降って風が吹いて、何人かが転倒したらメダルもある、と後輩に話していたんですよ」
悪条件下でハードルを跳ぶと晴天時よりリスクが大きくなるため、前半を慎重に行かざるを得ない。そこで為末が飛ばせば、相手の焦りを誘うことができる。1台目をトップで入る為末のスタイルが、外側の7レーンだったこともあり戦術的な優位性を大きくした。

ホームストレートにトップで入ってきたのはエドモントンと同じ。
2連勝中のサンチェス(ドミニカ)はレース中に負傷して途中棄権するアクシデントも起きていた。9台目からB.ジャクソンとJ.カーターのアメリカ2選手に前に行かれたが、インレーンのK.クレメント(アメリカ)との競り合いを制した。倒れ込みながらフィニッシュした為末以外は、誰も転倒はしなかったが、2個目の銅メダルをもぎとった。
大型スクリーンの3番目に「Dai」の文字を確認すると、その場に泣き崩れた為末。メダル後の4年間は、苦しい思いの連続だったのである。

エドモントン大会翌年に実業団選手生活をスタートさせたが、1シーズンで実業団を離れてプロ的な活動をする選手に転身。
しかし成績はぱっとせず、02年アジア大会3位、03年パリ世界陸上と04年アテネ五輪は準決勝を突破できなかった。パリ世界陸上前には「2つめのメダルをプレゼントしたい」と言っていた父親を亡くしている(1つめのメダルは母親に贈った)。

05年6~7月のヨーロッパ転戦も48秒台は1回だけで、煮え切らない成績が続いていた。
48秒台の好タイムを連発したエドモントン前と、勢いの違いは明らかだった。ところが、直前の練習で状態を上向かせた。アテネ五輪前は逆に、そこで調子を落としている。ここでも、経験に裏打ちされた判断力が生きた。
「“神経を追う”やり方もあるのかな、と思いました。転戦が終わって神経を休ませたら、研ぎ澄まされた状態になってくる」

経験と戦術の勝利ではあったが、4年前と同様に決勝での勝負強さは神がかっていた。ヘルシンキでも予選49秒17、準決勝48秒46、そして決勝48秒10とタイムを上げ続けた。
エドモントンで「この記録(47秒89)は、五輪か世界陸上の決勝でしか破れない」と、為末は予言した。もしもヘルシンキの決勝が好天に恵まれたら、エドモントンのタイムを破っていただろう。だが、そのときは外国勢も好記録を出し、銅メダルは取れなかったかもしれない。

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