8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

故障&転倒のアクシデントを乗り越えての銅メダル。翌年の五輪金、8年後のメダルコレクションへの布石

万全でない状況でも最低限の結果を残す。
それが真の強さにつながっていくことを、パリ世界陸上の室伏広治(ミズノ)が示してくれた。

室伏の金メダルはアテネ五輪より1年早く、パリで実現してもおかしくなかった。
2年前のエドモントン大会で銀メダルと、日本投てき史上初の快挙を達成した。
翌2002年はグランプリ・ファイナルに優勝して、実力ナンバーワンをアピール。そして03年6月のプラハの試合で84m86の世界歴代3位、現役選手では最高記録を投じた。

ところが、プラハから帰国後の1カ月半の間にアクシデントが重なった。1つめは7月末に、ウエイトトレーニング中に腰を痛めてしまったこと。自己新を出した直後にもかかわらず、練習を少し頑張りすぎた。
「ヨーロッパに10日間くらい行くと、やっておきたい練習ができなくなります。それを取り戻すために、追い込む必要もあったのです」と室伏。疲れが出るのはわかっていたが、その日は少しだけ、集中力が散漫になってしまったという。
当初は歩くこともきつく、完治に3週間かかると言われたが、10日程度でハンマーを投げられるまでに回復した。

だが、2つめのアクシデントが8月15日に起きてしまった。雨の中での練習中に転倒し、右ひじを強打してしまう。「右手の薬指が使えなくなってしまった」という。
出場辞退も考えざるを得なかったが、父親の室伏重信コーチや日本陸連、ミズノのスタッフにも相談して、「やれるところまでやってみる」という結論を下す。最終決断はパリに入ってからの試合前日の練習で、予選通過ラインの78m00を投げられることを確認してから下した。
8月23日の予選は2投目に79m45と、全体で3番目の記録で通過。メダル争いには加わるレベルで周囲を安心させた。

1日おいた25日の決勝は、転倒してからちょうど10日後。
その1投目に79m87でトップに立った。しかし2投目に80m69を投げたI.ティホン(ベラルーシ)に抜かれ、そのティホンが6投目に83m05と好記録を投げて優勝した。室伏も5投目に80m12と記録を伸ばしたが、6投目に80m36を投げたA.アヌシュ(ハンガリー)に逆転され、24cm差の銅メダルに終わった。
期待された金メダル取ることはできなかったが、室伏はシドニー五輪(9位)のときのように下を向かなかった。2位のアヌシュから5位まではわずか68cm差。4人の力が拮抗していたなかでメダルを確保し、「最低限の結果は残せた。多くを学ぶことができた大会です」と自己評価もできた。

試合出場に対し後ろ向きの姿勢になっていたら、ケガの治りも遅かったのではないか、と室伏はいう。
出ると決めて立ち向かうことで、工夫することも多くなる。
また、自身のコンディションが万全でなくても、結果を出さないといけないケースは、スポーツでは避けられない。
「調子が良いときにだけ試合に出るのは、自分で殻を作ってしまうようなもの。競技生活にプラスにならない」

室伏のこの姿勢が、翌年のアテネ五輪で結実する。
アヌシュに最後まで食い下がり、6投目に82m91の好記録を投げた。アヌシュは結局ドーピング違反が発覚して失格したが、室伏は銀メダルのティホンに3m以上の大差をつけた。
そして8年後。36歳のテグ大会で金メダルを取ったときに、世界陸上の金・銀・銅メダルコレクションが完成したのである。

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