8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

翌年のアテネ五輪金メダルにつなげた、野口のパリ世界陸上銀メダル

パリ世界陸上の銀メダルをアテネ五輪の金メダルに、野口みずき(グローバリー)は完璧につなげてみせた。野口の2003~04年はダイナミックであり、緻密だったといえる。

世界陸上ではC.ヌデレバ(ケニア)の33kmからのスパートに引き離されたが、19秒差(2時間24分14秒)の銀メダルに野口は表情を緩めた。
「ヌデレバさんは強かった。35kmから40kmまでが15分58秒ですか?負けてしまいましたが、アテネ五輪の代表を決めることができたので、一番の目標は達成できました」
日本勢が花の都パリを席巻し、野口、千葉真子(豊田自動織機)、坂本直子(天満屋)で2~4位を占めたが、代表内定はメダルを取った最上位選手のみ。この3人は1月の大阪国際女子の1~3位でもあったが、そのときは後ろをほとんど振り返らなかった野口が、パリでは何度も振り向いていた。

野口はかつて、“ハーフの女王”と言われた。
失業保険で競技生活を続けていた1999年に、唯一招待してくれたハーフマラソンに出場して優勝。その年の世界ハーフでも2位と、戦いのレベルをいきなり上げた。
2001年には世界陸上エドモントン大会1万m出場と、3シーズンで日本のトップに定着。02年には名古屋国際女子で初マラソンVを達成し、03年1月の大阪国際女子では2時間21分18秒の国内日本人最高で優勝した。

パリはマラソン3戦目。
日本人には無敗を続けていたが、日本選手間の勝敗だけに気を取られていたわけではない。世界で戦うためにどうトレーニングをすべきかを、つねに試行錯誤していた。世界陸上本番は気温22度と涼しかったが、夏場のマラソンに向けた練習を初めて行い、手応えを感じた。
「サンモリッツ(スイスの高地)で、これまでより長い期間のマラソン練習をやりました。きつくて涙を流しながら走ったこともありましたが、予定していた練習はすべてやりました」
アテネ五輪代表を最短距離で決めたことで野口は、世界陸上までのメニューを下敷きにして、より長い時間をかけて練習に取り組むことができると考えた。 「集中して、いっぱい練習して、35kmから40kmをもっと走れるようにします」とパリで宣言した。

打倒ヌデレバを想定して1年間を過ごし、アテネ五輪では野口が金、ヌデレバが銀と、パリの順位を見事に逆転させた。
アテネでスパートした地点は25kmで、1年前に勝負所と想定した35kmよりも早かった。五輪までの練習は、世界陸上までの練習よりもさらに充実し、アテネのコースに合わせてアップダウンも多くこなした。
パリではヌデレバに上りでスパートされて対応できなかったが、アテネではさらに厳しい上りで、意表を突いたギアチェンジをやってのけたのである。

数字上は1つの順位の違いでも、2位と1位の間には大きな壁が存在することも多い。
それを野口は、トレーニングやレース展開など世界陸上の経験のすべてを、翌年の五輪につなげることで克服した。一分の狂いもなくやってのける芯の強さが野口にあればこそ、だった。

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