8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

スプリント種目で末續が史上初のメダル獲得の快挙。「翌朝起きてもメダルがあった。夢じゃなかった」

自分の成し遂げたことに、末續慎吾(ミズノ)自身が感動していた。
「メダルが目標と言っていましたが、実際にこの順位になってみると、手の震えが止まりません」

男子200m決勝は最後、混戦になった。
J.カペルとD.パットンのアメリカ・コンビのワンツーは間違いなかったが、3位争いは末續とD.キャンベル(イギリス)が折り重なってフィニッシュ。
末續の前の日本記録保持者だった伊東浩司はテレビの解説席で、「3番、サンバーン」と興奮を抑えられなかったが、当の末續は確信が持てない。電光掲示板を、両手を胸の前で合わせて祈るように見つめる。2位までは名前が出たが、3位以下がなかなか表示されない。「10分くらい待たされた感じでした」(笑)。
3位とわかると末續は弾けた。その場で雄叫びを上げ、インタビューゾーンで待つ高野進コーチに駆け寄り、師弟は数分間抱き合い続けた。

この3人は東海大の先輩後輩で、現在も伊東が100m、末續が200m、高野が400mの日本記録を持つ。
高野が91年東京大会で世界陸上初の短距離種目決勝進出を果たし、伊東も1996~2000年の五輪・世界陸上の100mと200mで、何度も準決勝に進んだ。
そこに末續が成長してきた。準決勝には伊東と一緒だったシドニー五輪、翌01年エドモントン世界陸上と進んだ。03年の日本選手権では20秒03のアジア新をマーク。パリ世界陸上にはシーズンベスト1位で乗り込んだ。
エドモントン大会の室伏広治(ミズノ)と同じ状況だが、メダルまでは選手自身も、指導陣もイメージできなかった。そのくらい、日本人にとって短距離種目のメダルは遠い存在だったのだ。

末續自身はシーズンベスト1位も「国内で出した記録だから」と、メダルの根拠とはしていなかった。
それよりも「ファイナリストを目標にしたら、そこで“壁”を作ってしまう」と考えた。メダルを目標にすれば、決勝に進むのは当たり前という意識になれる。
パリでは、準決勝を通過した時点で最低限の目標は達成した。
20秒22の国外日本人最高もマーク。200mでは五輪を含めても日本人初の決勝進出という快挙だった。それでもまだ、末續には少し余力があった。1次予選、2次予選と「油断しないで力を抜く」という走りを実行できたからだ。
決勝はスタートの位置についたとき、脚の位置で審判から注意を受けた。初めての決勝という舞台。影響が出ないわけがない。実際、リアクションタイムは8人中7番目とよくなかった。
だが、末續は冷静だった。
「決勝になったら何が起こるかわからない、と思っていましたし、スタートで勝敗が決まるわけじゃないですから」

スタート後も周囲に気を取られず、自分の走りとレーンだけに集中した。
「そんなに離されていない」と感じながらホームストレートに入ったが、そこで左脚が軽い痙攣を起こした。
「“なんの”と思って走りましたが、そこからは頭が真っ白になってしまって、直線をどう走ったのか記憶がありません。ゴール直前で意識が戻って、“並んでいるぞ”と思いながらフィニッシュ。左を見たら2人しか見えなかったんです」

当時の末續は練習の質も量も、かなり追い込んで行っていた。
目指す動きが自動化され、半ば意識がない状態でもできていたのだろう。20秒38と自己記録から0.35秒後れたが、力は出し尽くした。
その夜、末續はメダルを首にかけたままベッドに入った。
「朝起きてメダルがあると確認して、夢じゃなかったと、少しだけ実感できました」

末續の後、日本選手は誰も、短距離種目では決勝に進んでいない。
当時から高野も「ファイナルの常連になれれば」という言い方をしていた。
五輪&世界陸上で誰かが、必ず決勝に残る。それを続けていけば、“第二の末續”が誕生することにつながっていくはずだ。

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