8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

世界陸上史上初めて、トラックとマラソンのメダル獲得選手が誕生。世紀をまたいでの快挙を実現させた千葉の意思の強さ

アテネ大会1万mで銅メダルを取った千葉真子(豊田自動織機)が、6年ぶりの世界陸上出場となったパリ大会で、今度は女子マラソンで銅メダルの快走。
世界で初めて世界陸上のトラックとマラソン、両方でメダルを獲得した選手となった。2つのメダルをつなぐことができたのは、千葉が強い意思で自分の道を歩き続けたからに他ならない。

パリ世界陸上は日本勢が野口みずき(グローバリー)、千葉、坂本直子(天満屋)で2~4位を占めた大会。33kmでスパートしたC.ヌデレバ(ケニア)を、野口、坂本、千葉の順で追っていたが、千葉は一時、ハン・ボンシル(北朝鮮)に抜かれている。
「とにかくメダル、と思って走っていたのですが、北朝鮮の選手を抜き返したら坂本さんとの差も縮まってきて、40km過ぎに3位に上がることができました」
1997年と2003年。
世紀をまたいでの快挙だったが、映像でわかるように千葉の髪の毛は、男子選手のように短くなっていた。髪型だけでなく、所属チームも旭化成から豊田自動織機に変わり、有森裕子、鈴木博美、高橋尚子を育てた小出義雄の指導を仰ぐようになっていた。

アテネ大会翌年の98年以降、千葉は故障が多くなり、初マラソンは99年11月の東京国際女子までずれ込んだ。中盤までトップを快走したものの5位(2時間29分00秒)に終わり、2000年3月の名古屋国際女子も、故障の影響で出場できなかった。シドニー五輪代表を逃してしまったのである。
「高校からずっと頑張り続けてきたので」と、休養期間を半年とった。競技を再開するときに、別の方法でマラソンに挑んでみたいと、小出のチームの門を叩いた。旭化成でスピードという基礎をしっかりと研き、その上に小出の指導で、スタミナ面を養成した。

マラソン練習は十人十色で、何が正解かはやってみないとわからないが、名門チームを去るのは勇気の要ることだった。「マラソンでも絶対に成功する」という千葉の意思の強さが、マラソン進出を成功させた。
しかし、パリ大会のレース後に、「1万mに続いての銅メダルですが、それほどのことでもありません。金メダルならすごいですけど」と千葉は話している。

当時の女子マラソンは、97年アテネ世界陸上で鈴木博美(積水化学)が金、99年セビリア世界陸上で市橋有里(住友VISA)が銀、2000年シドニー五輪で高橋尚子(積水化学)が金、01年エドモントン世界陸上で土佐礼子(三井海上)が銀と続いていた。
パリでも千葉は、野口には1分近く差をつけられた。日本の女子マラソンは世界トップレベルで、何人も選手がしのぎを削る状況だったのだ。

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