8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

学生まで無名だった土佐が世界デビュー。4位入賞の渋井と魅力的なマラソンコンビ誕生

初のマラソン世界大会でも、土佐礼子(三井海上)は臆せずにレースを引っ張った。その積極性で集団の人数を絞ることに成功し、最後はL.シモン(ルーマニア)に屈したが、渋井陽子(三井海上)との2・4位フィニッシュに成功。土佐と渋井、2000年代の女子マラソン・シーンを彩るコンビが誕生した世界陸上となった。

土佐の前半は動きが良くなかった。
5km通過は17分59秒だったが、「17分30秒くらいと思って走っていた」という。だが、10kmで渋井と並んで集団を引っ張り始めると、エンジンの回転が良くなった。
集団の牽引役は一定しなかったが、上りにかかる28kmから、「ここで人数を絞っておきたい」と土佐が前に出た。30kmで9人いた集団は32kmで先行していたC.ディタ(ルーマニア=北京五輪金メダル)を抜くと、33kmで土佐、シモン、S.ザハロワ(ロシア)、渋井の4人に絞られた。
35kmでザハロワ、37kmで渋井が後れ、土佐とシモンのマッチレースに。
「ラスト勝負では勝てない」と、土佐が何度も仕掛けたがシモンは離れず、スタジアムに入る直前にスパートして土佐を振り切った。前年のシドニー五輪で高橋尚子との競り合いに敗れていたシモンには、執念が感じられた。
土佐は疲労困憊の様子ではあったが、「自分の力は出し切れたので悔いはありません」と落胆しなかった。
レース後は4位でフィニッシュした渋井と、しっかりと抱き合った。学年は2つ下だが、土佐の成長に渋井は欠かせない存在だった。

タイプは対照的と言って良い。
スピードはエドモントン大会翌年に、1万mで30分48秒89の日本新をマークする渋井が優っていた。
それに対して土佐は典型的なスタミナ型。成長過程も渋井が高校時代から全国トップレベルだったのに対し、土佐は愛媛県の松山大で地道に力をつけた。

渋井が駅伝で力を発揮し始めた1999年(入社3年目)に、土佐も三井海上に入社。
トラック・駅伝で渋井との力の差は埋めがたい。マラソンで世界に挑戦する覚悟を決めると、1年目の終わり(00年3月)に名古屋国際女子に出場し、高橋尚子に次いで2位となった。
入社2年目(00年11月)の東京国際女子で日本人トップの2位となり、エドモントン大会の代表を決めた。
駅伝で区間賞を取り続けていた渋井も、01年1月の大阪国際女子に2時間23分11秒の初マラソン世界最高(当時)で優勝。土佐、渋井とも初の海外マラソンがエドモントン世界陸上だったのだ。

同じチームから代表が2人出た場合、練習場所を分けることも多い。だが、土佐と渋井は同じボルダーで練習をした。性格的にお互いがストレスを感じなかったからできたことだろう。渋井も姐御肌の性格だが、土佐は穏やかで懐の深さがあった。
5月にボルダーで合宿に入るまでは渋井が好調で、故障をしていた土佐が不調だった。
ところがボルダーでは2人の調子が逆転。強度の高いポイント練習は別々に行ったが、渋井のポイント練習の日に高温が続くこともあり、2人の状態は対照的だった。
渋井はエドモントンで、改めて土佐の粘りに感服したし、土佐には、不調だった渋井の4位は予想以上だった。
「集団にシブがいることが心強かったですね。22kmで給水を取り損ねたときはボトルを渡してくれましたし、お互いに支え合っていました」

土佐がその後の五輪や世界陸上で活躍したのに対し、渋井は04年にマラソンで日本記録をマークした。
1万mでも03年パリ世界陸上、08年北京五輪と代表入りした。
だが、2人が一緒に走ったマラソンは、エドモントンが最初で最後だった。

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