8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

バルセロナ五輪以来の男子マラソン・メダル獲得は、旭化成の伝統をつないだ佐藤が実現

佐藤信之(旭化成)はスタジアムに戻ってきたときの、ゴーっという歓声が忘れられないという。
「地響きがしているような音でした」
金メダルのA.アントンは地元スペインの選手だったから当然として、3位の選手がここまで熱狂的に迎えられるとは、佐藤は予想していなかった。

実は佐藤の銅メダルも、予想外だった。
日本の男子マラソンは91年東京世界陸上で谷口浩美(旭化成)が金メダル、翌年のバルセロナ五輪で森下広一(旭化成)が銀メダルを連続で取ったが、森下の故障もあってその後は低迷期に入る。1993年シュツットガルト世界陸上の5位(打越忠夫・雪印)があるくらいで、95年以降は五輪&世界陸上で入賞もできていなかった。
セビリア世界陸上の選考会で佐藤らが、2時間8分台を出してはいたが、優勝することはできなかった。入賞の可能性はあってもメダルまでは苦しいのでは、と思われていたのである。
それを覆したのが、佐藤の積極的な走りだった。
「25kmで余裕があったら仕掛けていこうと、レース前から考えていました」

レース中の最高は32度と気温は高かったが、湿度は32~43%と低い。
1周約12.5kmの周回コースに大きなアップダウンはなかった。佐藤は27kmで先行していたモロッコ選手を抜き去ると、35km通過では集団に24秒差をつけていた。距離にすると100mちょっと。それ以上離れると視界にもとらえづらくなる。そう判断したのか、ディフェンディング・チャンピオンのアントンが、37kmで佐藤を追いかけ始めた。
佐藤は39km付近でアントンに、40km過ぎでV.モディカ(イタリア)に逆転されたが、アントンに抜かれたときもしばらく食い下がったし、モディカとの差は最後で4秒差まで詰めた。
「僕は宗さん兄弟(宗茂・宗猛)や瀬古(利彦)さん、中山(竹通)さんら、(1980年代の)強かった選手たちに憧れて、マラソン選手になりたいと思いました。それが最近は、男子マラソンが低迷している、と言われて悔しかった。外国選手に負けない気持ちで走りました」

佐藤は中京大中京高から中大に進み、箱根駅伝でも活躍したが、世界を目指す姿勢は一貫していた。それが裏目に出て、練習をしすぎて故障をすることも。4年時には駅伝で結果を出せなかったが、佐藤のスタンスがぶれることはなかった。
マラソンで世界を目指すなら、と旭化成に進んだが、すぐに結果は出なかった。

旭化成は練習で40km走を繰り返してマラソンを走る体を作っていくが、佐藤はそのタイム設定を少し落とすことにした。その代わり、スピード練習ではチームの誰にも負けないように走った。持久系とスピード系の組み合わせ方を自分なりにアレンジして、マラソンにつなげたのだ。
日本男子マラソンに7年ぶりのメダルを取り戻したのは、伝統チームの新しいタイプの選手だった。

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