8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

世界陸上初のトラック種目メダリストは、“マラソンの旭化成”で育った21歳の千葉

千葉真子(旭化成)のアテネ大会1万m3位は、世界陸上女子トラック種目初のメダル獲得で、五輪を含めても1928年アムステルダム五輪女子800m銀メダルの人見絹枝以来、実に69年ぶりという快挙だった。

しかし5000m通過が16分13秒というスローペースは、千葉にとって歓迎できない展開だった。外国勢に対しラスト勝負では分が悪い。千葉が勝負できるのは、速いペースを維持していく展開に持ち込んだときだ。
6000mで先頭に出たのは「このままスローで行ったら、今までの練習は何だったんだろう」という思いからだった。

千葉の揺さぶりがレースを動かし、集団が絞られていった。
優勝したS.バルソシオ(エチオピア)の8500mからのスパートには付けなかったが、9000m付近でT.ロルーペ(ケニア)をかわして3位に上がった。
「先頭集団の外国選手たちが簡単に離れていくので、『あらっ、みんなどうしたの?』と思っていました。最後は2位の選手との差も詰まってきて、また『あらっ?』と思って」
フィニッシュタイムは31分41秒93で、2位のフェレイラ(ポルトガル)を2秒78差まで追い上げている。
後半の5000mは15分28秒までペースアップしていた。宗茂監督も「後半は満点に近いレース」と、賛辞を惜しまなかった。

千葉を指導していたのはマラソンのレジェンドである宗兄弟(当時は兄の宗茂が監督、宗猛が副監督)。世界陸上女子トラック種目初のメダリストは、“マラソンの旭化成”から生まれたのである。
千葉はアトランタ五輪に出場した前年が、宇治高(現在の立命館宇治高)から入社して2年目のシーズン。春に31分28秒15の日本新をマークし、五輪本番でも5位に入賞していた。97年2月にはハーフマラソンで1時間06分43秒の世界歴代2位をマークしている(後に国際陸連の規定が変わり、現在は下り坂コースで参考記録扱いに)。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いがあったが、アテネ大会でメダルまで、明確にイメージできていたわけではない。がむしゃらに走った結果、と千葉自身も考えていた。 「銅メダルは運が良かったのだと思います」
謙遜気味に話したが、旭化成のレベルの高いトレーニングをこなす能力があったのは、千葉しかいなかった
そして当時から、マラソン進出を視野に入れていた。
「転向というよりも、競技の幅を広げる、ととらえているんです。夏に1万mをやって冬にマラソン、とできたらいいのですが」
だが、トラックランナーのマラソン進出は、簡単なことではなかった。

一覧に戻る

このページのトップへ