8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

小出門下最初の世界一は鈴木。14kmも独走した強さを生んだ14年に及ぶ師弟関係

28kmから独走した鈴木博美(積水化学)は、本当に強かった。
「自分の感覚では余裕がありました。ゴールまで10km以上残っていましたけど、自信はありましたね」
この強さを生み出したのは、トラック1万mで日本記録を更新した鈴木博美という好素材と、小出義雄という情熱的でかつ、懐の深い指導者の絆だった。
小出は当時、すでに有森裕子を世界的なマラソン・ランナーに育てていた(1991年東京世界陸上4位&92年バルセロナ五輪銀メダル&96年アトランタ五輪銅メダル)。年齢的には有森の方が鈴木より2つ上だが、小出が認めたのは鈴木の方が数年早かった。

市船橋高の監督として全国高校駅伝に優勝し、高校チャンピオンを多く指導した小出は、「世界一の選手を育てたい」と考えていた。そんな時期に巡り会ったのが鈴木で、インターハイ3000mは2位だが、その将来性に惚れ込んだ。鈴木を実業団チームに送り込み、自身も1年遅れて実業団監督に転身した。
だが、ことは簡単に進まなかった。覚悟を決めて飛び込んできた有森や、走ることが好きで仕方のない高橋尚子とは違い、鈴木は「私は練習が嫌いでしたから」と、自他共に認めるほど。
しかし、小出は“待つこと”ができる指導者だった。鈴木の気持ちが競技に向くまで待ち続けた。鈴木も駅伝ではしっかり走ったので、会社から戦力外を通告されることもなかった。

鈴木のトラック種目の記録は、実業団入り後5年間はほとんど残っていないが、バルセロナ五輪の行われた92年に、1万mでいきなり32分02秒41を出して代表入りしている。
93~94年はまた記録が途絶えたが、95年に31分43秒41まで伸ばし、イエテボリ世界陸上では8位。日本女子のトラック種目初入賞だった。

96年1月の初マラソンのとき、すでに27歳。
実業団9年目のシーズンだった。2時間26分27秒と選考会最速のタイムを出したが、選考会で唯一、外国人選手に敗れて2位だったためアトランタ五輪代表を逃していた。
その頃からアテネ世界陸上を本気で狙う気持ちが固まり、小出の練習にも前向きに取り組むようになった。アテネ世界陸上後に鈴木は次のように話している。
「今も、練習は嫌いです。でも、気持ちの切り換えができるようになりました。必要な練習だと思えば、集中してやります。有森さんのような人が近くにいたことにも、影響を受けました」

3月の名古屋国際女子で代表を決めたこともあり、アテネ大会へのマラソン練習を始めたのは5月から。
小出は「密度が濃い練習にするしかなかったので、やりきれるかわかりませんでした」と心配した。脚に痛みが出た時期もあったが、小出のノウハウと鈴木の強いメンタルで乗り切った。
標高2600mの米国ネダーランドで行った練習では、不得手の下りでは、練習パートナーの高橋につけないこともあった。しかし上りには強さを見せた。アテネの本番でも、下りが始まる32kmまでに抜け出すプランで臨み、見事にやってのけた。

有森、高橋、千葉真子と小出門下のメダリストは多いが、メダルを取るまでの指導期間が一番長かったのが鈴木だった。そして小出の夢だった“世界一”を最初に達成したのも、師弟関係14年目の鈴木だった。

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