8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

高野の偉業を継承。前半型のレース展開を武器に、山崎がハードル種目初ファイナリストに

スプリント種目でも世界と戦える――高野進(東海大AC)が1991年東京大会400m決勝進出で作った実績を、4年後のイエテボリ大会で継承したのは400m障害の山崎一彦(アディダスTC)だった。
「決勝の前にイメージトレーニングをしようとしたら急に手が震えてしまって…。でも、競技場に入ったら清々しい気分になって走ることができました」
先駆者の高野は92年バルセロナ五輪でも決勝に進んだが(8位)、そのシーズンを最後に一線を退いた。次に可能性があると期待されたのが男子400m障害だった。

東京大会では苅部俊二(法大)が準決勝に進出。93年の日本選手権で斎藤嘉彦(法大)と苅部(富士通)が日本人初の48秒台をマークし、その年のシュツットガルト世界陸上では、勝木秀和(西濃運輸)を加えた代表3人全員が準決勝に駒を進めた。
山崎も東京大会に大学2年で出場し、高野の偉業を目の前で見ていた1人である。バルセロナ五輪でも代表にはなったが、ともに予選落ち。記録的にも49秒が切れず、斎藤&苅部に次ぐ“第三の男”的に見られていた。2人に追いつこうと焦って練習し、故障をする悪循環に陥ってしまったこともあった。
「斎藤とは高校時代から競り合ってきましたが、大事なところではすべて負けていた。どこが違うのだろうと、悩んだこともありました」
それでも山崎が貫いたのは、前半から飛ばすレーススタイルだった。200mの通過は国内ではいつもトップ。後半で逆転されるレースが続いても、世界で戦うことを考えたとき、そのスタイルが武器になると考えた。

山崎の身長は174cmでこの種目では小柄な方だが、5台目までのインターバルを13歩で走りきるには、1台目からスピードに乗せた方が走りやすかった。93年5月には48秒に突入。世界陸上でも、前半からリードを奪うことで主導権を奪うことができた。

イエテボリ大会の予選は5台目の通過が21秒1という速さ。東京大会金メダルのS.マテテ(ザンビア)に先着して、48秒37の日本新をマーク。予選全体でもトップのタイムで、準決勝も有利なシードレーン(3~6レーン)を確保する。翌日の準決勝は48秒64とタイムは落ちたが、2組3着で着順通過した。
「予選の前半は、力が抜けてどんどんスピードが出ました。それが準決勝の前はすごく緊張してしまった。それでもシードレーンを走ることを自信とできましたし、プレッシャーはありましたけど、準決勝も後半は良い走りができました」

中一日おいての決勝は、疲れもあったため前半が予選よりも0.5秒も遅く、得意の展開に持ち込めなかった。
「目的意識を高く持てなかった」部分もあった。メンタル面も、7位という実際の着順も、東京大会の高野と同じだったのだ。
同じではあったが、違う選手がそれを再現できたことで、“決勝で戦う意識”が日本の短距離界全体に強くなった。そして前半型で世界と勝負をする山崎のスタイルは、2001年エドモントン大会銅メダルの為末大に受け継がれていくことになる。

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