世界陸上での日本選手の活躍

初メダルから2年で女子マラソン世界一、五輪も含め日本女子選手初の金メダルという偉業
歴史的な瞬間だった。
浅利純子(ダイハツ)の淡々としたフィニッシュは、五輪でも銀メダルが最高(*)だった日本の女子にとって初の金メダル。91年東京大会の山下佐知子(京セラ)の銀メダルから2年。安部友恵(旭化成)も3位に続き、日本の女子マラソンが世界の頂点に駆け上がった大会になった。
*1928年アムステルダム五輪800mの人見絹枝と、1992年バルセロナ五輪マラソンの有森裕子
直接的な勝因は鈴木従道監督が立てたレースプランを、浅利がしっかりと実行できたことだった。
5km通過が18分10秒とゆったりしたペースで始まったが、10kmまでは17分16秒に跳ね上がった。18kmから8人で推移した先頭集団は30km手前で6人となり、32kmではM・マシャド(ポルトガル)がスパート。33.5kmでは2位の浅利を約15m引き離していた。
浅利は徐々に差を詰めて35.8kmでマシャドに並ぶと、36kmからの下りで引き離した。
「4月にコースを下見したときに、36kmの下りで勝負する作戦を監督が考えてくれたんです。それからは毎朝の練習で、ゴルフ場の下りを必ずペースアップする練習を取り入れました。マシャドさんに離されたときも、36kmで勝負するのだから焦らなくていい、と落ち着いて走っていました」
優勝タイムは2時間30分03秒で、浅利自身が持つ2時間26分26秒の日本記録(当時)とは差があったが、飄々とした表情でペースアップした終盤の強さは、強固な師弟関係から生まれた。
もう1人の安部は初マラソンで日本記録に1秒と迫ったが、2度目のマラソンということで経験不足も懸念された。レース展開などは谷口浩美や森下広一ら、旭化成男子選手たちの経験を参考にしたという。
国内レースと違ってアクシデントが起きやすい給水も「完璧」(安部)で、最後はマシャドを7秒差まで追い込んだ。
何より「スタートラインに着いたとき、まったく緊張していなかった」という図太さで、初の世界大会でも持っている力を発揮することができた。
91年東京世界陸上、92年バルセロナ五輪と日本の主力だった有森と山下が、93年は休養に入っていた。
世界的にも、新しい選手が台頭したシーズンで、浅利に敗れたマシャドは95年のイエテボリ世界陸上で金メダル、97年のアテネ世界陸上銀メダルと、シュツットガルト大会を機に世界のトップに定着した。
初の代表となった浅利と安部が、そのマシャドと好勝負を演じて1・3位を占めた。日本の女子マラソンが、完全に世界を席巻していた。