8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

“ファイナリスト”という言葉を公言し、レースパターンを変更して実現させた戦後初の短距離決勝進出

「でも、夢なら醒めないでほしい」
8月27日の準決勝2組を3位で通過した高野進(東海大AC)は、息も絶え絶えに話した。

当時の男子400mは4ラウンド制。
高野は1次予選、2次予選、準決勝と3日間連続で走った(現在は予選、準決勝、決勝の3ラウンド制)
。準決勝のタイムは45秒43でそれほど速くはないが、2次予選で「44秒台が5人いたので」と、自身の日本記録(44秒78)に迫る44秒91で走っていた。
準決勝は2組の実施で、各組の着順で4位までが決勝に進出する(現在は3組で各組の2位までと3位以下のタイム上位2人)。フィニッシュと同時に戦後初、五輪を含めても59年ぶりの短距離種目決勝進出が決まったが、高野は5分以上立ち上がれなかった。
報道陣の前に現れたときも「もっと嬉しいんじゃないかと思っていましたが、今は苦しさの方が激しくて…」と話し、しばらく間を置いて冒頭の「夢なら」と言葉をつないだ。

当時の高野は、400mのパイオニアというべき存在。
1982年まで46秒台だった日本記録をどんどん更新していった。83年に初の45秒台を出し、84年ロス五輪では準決勝進出。86年アジア大会で金メダルを獲得すると、88年ソウル五輪では日本人初の44秒台となる44秒90を準決勝でマークした。それでも、5位で決勝進出はかなわなかったのだ。
直後はやり切った感が強かったが、帰国してしばらく経つと「世界のトップが真剣勝負をする場で自分も走ってみたい」と、決勝の舞台をイメージしている自分に気づいた。

86年には200mで日本新(20秒74)を出したが、400mのレース展開はイーブン型。ソウル五輪では200m通過が21秒98で、後半が22秒92。速度低下を1秒でとどめた。イーブン型の完成形といえたが、世界で勝負をするためには前半で離されてしまうのがマイナス要素だと高野は判断した。
前半型に変えるため89年は100mに専念して、日本選手権でも100 mで3位に入った。90年は200mでアジア大会に優勝。91年に400mに戻って日本選手権で44秒78の日本新を出したとき、前半の200m通過は21秒3と、ソウル五輪よりも0.6秒も速かった。

ファイナリスト(決勝を戦う選手)という言葉を、メディアに繰り返し話し、世間に定着させたのも高野自身だった。目標を公言することで、不退転の気持ちを強固にした。
東京大会準決勝の200m通過は21秒0。前半型に変えたとはいえ明らかにオーバーペースで、思いの強さがマイナスに出てしまった。だが、前半トップでレースの流れをコントロールし、エネルギーは残っていなかった最後の直線もなんとか踏ん張った。

そして夢にまで見た決勝は2日後、8月29日20時40分にスタートした。
準決勝よりは冷静で、200 mは21秒41で通過。トップ集団で最後の直線に出たところで、「ふっと力が抜けてしまった」という。最後の直線を走っている感覚を、「雲の上を走っているようだった」と高野は表現した。
45秒39で7位。
初めて決勝まで4本を走り抜き、力が残っていなかったのも事実だが、「勝負しようという気持ちが持てなかった」と“世界の7位”の走りを自己分析した。

しかし高野の意志は、95年イエテボリ大会400m障害で決勝に進んだ山崎一彦、同じく400m障害で01年エドモントン大会銅メダルを獲得した為末大に受け継がれた。 そして2003年パリ世界陸上ではついに、高野が指導した末續慎吾が200mで銅メダルを獲得したのである。
高野の決勝進出は、「スプリント種目では世界と戦えない」という固定観念を完全に覆した。

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