8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

世界陸上日本人初、五輪を含めても23年ぶりのメダル獲得。女子マラソン興隆の起爆剤となった“功労走”

本当に“意外”だった。
女子マラソンのメダル獲得も、それを成し遂げたのが山下佐知子(京セラ)だったことも。

日本勢3人の中でも山下は3番手と見られていた。有森裕子(リクルート)は1月に道路日本新で走っていたし、荒木久美(京セラ)は1988ソウル五輪代表だった。それに対して山下には、これという肩書きがなかった。
だが、30kmを過ぎて有力選手が次々に後退し、36km過ぎに有森も後れると、W.パンフィル(ポーランド)、K.ドーレ(ドイツ)に食い下がったのは山下だけだった。41.2kmでパンフィルのスパートに振り切られてしまったが、ドーレには100m近い差をつけた。
「2位になれたなんて、信じられません」

朝7時のスタートだったが、中間点で気温は26度まで上がっていた。我慢のレースになると予測した山下は、外国勢のペースアップに過剰に反応しなかった。少し離されることもあったが、あきらめずにじわじわと追い上げた。
「先頭集団に食らいついて、なんとか8位以内に、と考えていたんです。勝機があったとしたら、谷口(浩美・旭化成)さんが仕掛けた38kmだったと思うのですが、8位狙いの選手にはできませんでした」
予想以上の快走をした選手ならではの反省だった。だが、大会2日目での地元勢メダル獲得は、続く選手たちに勢いを与えたのは間違いない。

当時、日本の女子マラソンへの期待はそこまで大きくなかった。
1984年に五輪種目に採用されたが、ロス、ソウルと五輪2大会連続で日本勢は、上位にまったく食い込めなかった。有森が1月に日本記録をマークしたが、入賞を飛び越えて、いきなりメダルを取ることまでは予想できなかった。
その意味で、日本の女子長距離界に与えた影響も大きかった。山下はトラックで、日本のトップレベルではなかった選手である。自分たちも世界で戦える、という雰囲気を定着させたのである。

翌92年のバルセロナ五輪は有森が銀メダルで山下が4位。
93年のシュツットガルト世界陸上で浅利純子(ダイハツ)が女子マラソン初金メダルと、日本の女子マラソンは一気に駆け上がっていく。
確かにエリート選手でもなく、スピードもなかった山下だが、内蔵の強さには自信を持っていた。夏場でも人並み以上に食べることができ、それも影響して夏場に強かった。
また、地方国立大の鳥取大在学中に、全国都道府県対抗女子駅伝1区で区間賞を取った。
中学の教員になったが、1学期で辞して実業団選手に転身。体と気持ちの強さは、メダリスト第1号になるに相応しい選手だった。

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