8月4日開幕

世界陸上での日本選手の活躍

五輪も含め陸上競技戦後初の歴史的な金メダル、マラソン日本が自信を取り戻した42.195km

世界陸上初のアジア開催となった第3回東京大会。
地元大会で金メダルを日本にもたらしたのは、男子マラソンの谷口浩美(旭化成)だった。五輪を含めても戦後の日本陸上界が取った初の金メダル。表彰式でセンターポールに日の丸が揚がったのは、1936年のベルリン五輪以来だった。

午前6時のスタートだが気温26度、湿度73%のコンディション。
中間点が1時間06分25秒と、スピードではなく耐久型のレースになり、4人の集団から38km過ぎの上り坂で谷口がスパート。20km以降は5km毎が16分台に落ちていたペースを、最後は5km換算15分11秒にアップして、2位のA.サラ(ジブチ)に150m以上の差をつけた。
「自分はキレがないので、みんなが苦しむところで駆け引きをしようと、上りにかかる38kmで勝負を仕掛けました」

1980年代は宗茂・宗猛兄弟、瀬古利彦、中山竹通と、日本マラソン界のレジェンドとなっている選手が活躍したが、五輪での成績は宗猛の1984年ロス五輪が4位、中山の88年ソウル五輪も4位でメダルに届かなかった。

世界陸上は第1回ヘルシンキ、第2回ローマと、マラソンに関してはトップクラスを派遣しなかった。
東京大会は初めてトップ選手を代表とした大会だったが、大会前の谷口は金メダル候補筆頭とまではいえなかった。
88年に2時間07分40秒をマークし、87年と89年の東京国際マラソンに優勝するなど、速さと強さを兼ね備えた選手ではあったが、メダル候補の1人というポジション。世界でも類を見ない上下動のないピッチ走法を武器に、高温多湿という日本ならではの環境も、谷口に味方したのは間違いない。

谷口を指導していたのは宗茂監督と宗猛副監督。
旭化成は、日本のマラソン界の屋台骨ともいえたチームで、「監督たち2人の30回近いマラソン経験が、自分の経験と合わせて潜在意識にしみ込んでいる。それで、いざというときに体が動く」と谷口。チームの力、ひいては日本マラソン界の伝統が取ったメダルであることが、谷口のコメントからうかがえた。
80年代にメダルを取れず、手詰まり感も出始めていた日本のマラソンだったが、谷口の金メダルは“日本も世界の頂点に立てる”自信を取り戻すきっかけになった。

東京大会の成績で翌年のバルセロナ五輪代表に決まったが、五輪前は故障をしたため本調子で臨めなかった。さらに五輪本番は給水で他の選手と接触して転倒。8位でフィニッシュ後に、明るく「こけちゃいました」とコメントし、その潔い振る舞いでも国民の好感を得た。

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