未だに多くの謎に包まれているピラミッド。人々がどのようにしてあの巨大なピラミッドを造ったのか、その技術に迫ります。
ロイとマヤのピラミディオン
Pyramidion of Ry and Maya
新王国時代、第18王朝末(前1336~1295年頃)
アビドス
石灰岩
高さ54.0cm、基底部40.0cm×50.0cm
▲ 古代ピラミッドのピラミッドパワーを体感!!
新王国時代の貴族の墓の礼拝室の上や背後には、しばしば小型のピラミッドが造られ、その頂にはピラミディオンと呼ばれる太陽信仰の象徴が置かれた。新王国時代のトゥーム・チャペルと呼ばれる貴族の墓は、上部に礼拝堂があり地下に墓室がある独特の形式をもつ。このピラミディオンは、トゥーム・チャペル最奥部の礼拝室の上か、背後に造られたピラミッドの頂部に配されていたと考えられる。正面には、被葬者ロイとマヤが東方から昇る太陽に向かって礼拝する姿で彫刻されている。下部の碑文には「オシリスとなった弓兵隊長ロイ、声正しき者、家の女主人マヤ」と刻まれている。ロイは、第18王朝末の軍人で、「厩の長」などの称号も持っていたことが知られている。このピラミディオンは、アビドスのロイとマヤのトゥーム・チャペルに置かれていたものと思われる。
「古王国時代」に花ひらいたピラミッドとファラオの物語。
ジェセル王が階段ピラミッドを建造し、巨大ピラミッドの時代が始まった。ピラミッドを建造したファラオたちに迫ります。
クフ王とペピ1世像を伴うライオン女神像
Terracotta statue of a lion goddess with King Khufu and King Pepy I
古王国時代
第4王朝 クフ王の治世(前2589~2566年頃)
第6王朝 ペピ1世の治世(前2331~2287年頃)
アブ・シール南丘陵遺跡、岩窟遺構AKT01
テラコッタ
高さ99.5cm、幅28.5cm、奥行26.2cm
▲ 世界で3体しかないクフ王の銘がある遺物1
この像は、両腕をまっすぐに伸ばした雌ライオンの女神を表している。向かって左側には、子供であることを示す右手の人差し指を口に当てた姿勢で、ネメス頭巾と呼ばれるファラオに特徴的な頭巾をかぶる像がある。この像が、クフ王の像であると考えられる。なぜなら、背板の側面にクフ王のホルス名「メジェドゥ」が彫られているためである。
クフ王銘入り雌ライオンのスフィンクス像
Terracotta statue of recumbent lion with the name of King Khufu
古王国時代
第4王朝 クフ王の治世(前2589~2566年頃)
アブ・シール南丘陵遺跡、岩窟遺構AKT01
テラコッタ
長さ61.8cm、幅19.1cm、高さ29.0cm
▲ 世界で3体しかないクフ王の銘がある遺物2
ライオン女神像と同じ場所から発見されたこの像は、もともと雌ライオンが背後からしゃがんだ姿勢をした子供の姿クフ王を護る姿を表していたと考えられる。両前足の間には、「上下エジプト王、クフ」と刻まれており、両前足の付け根の間には人物の左足と男根が認められることからしゃがんだ姿勢の裸のクフ王の像があったと推定される。ライオン女神像と同様に、母としてのライオン女神に守護される子供のクフ王の姿が表現されていたのであろう。
カフラー王像
King Khafre seated
古王国時代
第4王朝 カフラー王の治世(前2558~2532年頃)
ギザ、カフラー王のピラミッド複合体、河岸神殿
硬砂岩
高さ118.5cm、幅42.5cm、奥行78.5cm
▲ 黒光りする素晴らしい彫像
カフラー王は、クフ王の息子でギザの第2ピラミッドの建造者として知られているが、クフ王の後継者ではなく、クフ王の後継者で兄のジェドエフラー王の死後に王位を継承した。部分的に修復されたこの像は、もともとギザのカフラー王の河岸神殿に配されていたもので、王は正面を見据える姿で表現されている。額の中央から頭にかけてウラエウス・コブラを戴いたネメス頭巾を被り、顎髭をつけ、襞の着いた王の腰布であるシェンディトを身につけている。右手で布を握り、左手はまっすぐにして左膝に置いている。精悍な顔つきと肉体の筋肉は、理想化された力強いファラオの姿を表している。玉座の前面には足の両側にカフラー王のホルス名「ウセル・イブ」とカルトゥーシュに記されたカフラーの名が刻まれている。玉座の側面には、下エジプト、すなわちエジプト北部を象徴するロータスと上エジプト、すなわちエジプト南部を象徴するパピルスが結び合わされた形で、両地域の統一を表す「セマ・タウイ」が描かれている。
メンカウラー王のトリアード
Triad of King Menkaure
古王国時代
第4王朝 メンカウラー王の治世(前2532~2503年頃)
ギザ、メンカウラー王のピラミッド複合体、河岸神殿
硬砂岩
高さ92.9cm、幅46.8cm、奥行42.5cm
▲ 国立カイロ博物館の至宝の1つ
ギザの第3ピラミッドと呼ばれるメンカウラー王のピラミッドの河岸神殿で発見されたトリアード(三神像)のうちの1つである。中央に上エジプトの王冠である白冠を被り、顎髭を付け、シェンディト・キルトという腰布を身につけたメンカウラー王が左足を前に出した姿で表され、その右側に二つの牛の角に挟まれた太陽円盤を戴いたハトホル女神が、一方左側にはジャッカルの姿をした上エジプト第17ノモスの標章を戴く女神が表現されている。メンカウラー王は両腕をまっすぐに伸ばして布を掴み、二柱の女神は王の背中から腕に手をまわしている。メンカウラー王のトリアード像は、合計4体が知られており、いずれもメンカウラー王とハトホル女神、ハトホル女神が崇拝されたノモスの神の姿で構成される。カイロ博物館に3体、ボストン美術館に1体収蔵されている。おそらく、メンカウラー王の河岸神殿には全部で8体のトリアードが配されていたと考えられている。トリアードは、メンカウラー王と関係の強いハトホル女神を王の祭祀に関連するノモスからもたらされる豊かな供物を保証する女神として表したものである。
アメンエムハト3世像
King Amenemhat III
中王国時代
第12王朝 アメンエムハト3世の治世(前1831~1786年頃)
テーベ、カルナク神殿、「彫像の隠し場」
灰色花崗岩
高さ73.5cm、幅31.0cm、奥行26.0cm
▲ ファラオの表情にも注目!
アメンエムハト3世は中王国時代の最盛期を築いたファラオであり、エジプトの各地に多くの足跡を残した。この像は、額にウラエウス・コブラを配したネメス頭巾を被り、左足を前に出し、前面が三角形をした腰布に両腕を真っ直ぐに伸ばして表されているが、神に対して祈る姿勢を表現したものである。実際には両腕を曲げて顔の前に両手をかざし祈りの姿勢を作るのであるが、石材の加工に手間がかかるため、この姿勢で祈りの姿勢を表現した。古王国時代や中王国時代初めの王像の理想に満ちた王の顔とは異なり、王の顔は一見やつれ、もの悲しそうな表情である。しかしながら、王の肉体は、均整がとれ若々しく表現されている。この彫像は、1904年にテーベのカルナク神殿第7塔門の床面から発見された所謂「彫像の隠し場(カッシェ)」から他の約2000体の彫像とともに出土した彫像で、アメンエムハト3世像の傑作である。
エジプトの遺跡から発掘された出土品からは、ピラミッドが建造された時代の人々の暮らしぶりをうかがい知ることが出来ます。
階級によって生活には大きな開きがありました。神官、貴族、知識階級、庶民がどのような生活をしていたのかを紹介いたします。
カイとその家族の像
Seated Statue of Kai with his son and daughter
古王国時代
第5王朝(前2494~2345年頃)
ギザ、カイ墓
石灰岩
高さ57.0cm、幅20.9cm、奥行37.7cm
▲ エジプト国外初展示
この座像は、1999年にザヒ・ハワス博士によって、ギザの西部墓地の神官カイの墓の偽扉の裏側から発見された。カイは、背もたれのある椅子に腰掛け、右腕を曲げて、布を掴んだ右手を胸の前に当て、左手を左膝に置いた堂々とした姿で表されている。頭には肩まで届く鬘を被り、浮彫で表された眉毛と銅の枠で囲まれた水晶の目によって顔に生気が感じさせられる。右足元に裸の姿の息子が左手をまわし、左足元には白い衣装を身につけた娘が斜め座りで右手をまわしている。カイは、クフ王の死後の祭祀に関わる重要な神官であった。
ラーヘテプの書記座像
Scribal statue of Rahotep
古王国時代
第5王朝(前2494~2345年頃)
サッカラ
赤色花崗岩
高さ52.0cm、幅33.2cm、奥行24.7cm
▲ 古代エジプトに人気のあった座像
足を組んで膝の上にパピルスを置いた書記座像は、古王国時代第4王朝から製作され、非常に人気を博した。この書記座像は、サッカラのジェセル王の階段ピラミッドの北側に墓を造営したラーヘテプという人物のものである。頭の真ん中で分けた肩までおりた鬘を被り、幅広の襟飾りをつけ、両手はパピルスの上に置かれているが、右手は布を握りしめ、左手は組んだ左足までまっすぐに広げている。台座には「王の記録の書記の監督官、ラーヘテプ」と銘文が施されている。古代エジプトでは、書記は単に文字を書く人という意味ではなく、役人を表した。書記になることは出世の第一歩であった。
ヘテプの方形彫像
Block statue of Hotep
中王国時代
第12王朝(前1985~1773年頃)
サッカラ、ヘテプ墓
花崗閃緑岩
高さ76.3cm、幅51.3cm、奥行60.8cm
▲ 変わった形の像
古王国時代の王の死後の祭祀は、断続的ではなる中王国時代になってからも維持された。ヘテプは、第6王朝のテティ王の祭祀の葬祭神官であり、第12王朝のアメンエムハト1世の治世の人物と考えられている。彼の墓はテティ王のピラミッドの北に位置するメレルカの墓とカゲムニの墓の間に位置しており、この彫像もそこから原位置で出土した。
この彫像は足を胸元へ引き寄せてうずくまり、膝を抱えている人物を表した方形彫像(ブロック・スタチュー)と呼ばれる中王国時代に登場した様式の最古の例である。直方体の石の塊から彫刻するまでに手間がかからず、丈夫で安定している。足の間には供養文とヘテプの名前と称号が刻まれている。
パン造りとビール造り職人の模型
Model Courtyard: Brewing and cooking
中王国時代
第12王朝(前1985~1773年頃)
アシュート、ナクティの墓
木
高さ34.3cm、幅73.5cm、奥行43.5cm
▲ 当時の生活がまるわかり!
中王国時代になると日常生活や仕事の情景が模型で表現され、墓に副葬品として納められた。この模型は矩形の木箱の中にパン造りとビール醸造の場が表されている。おそらく当時の日乾煉瓦でできた住居の一角を表しているであろう。部屋の入り口に近い場所には女性が座り火を熱しているかパンを焼いているようである。中央には粉を挽くための台が2個置いてあり、奥に行くと液体を入れた壺を頭に乗せた男性が大甕のほうに向かっているようである。大甕の横には両腕を中に入れた男性が作業をしている。
当時の女性たちは身分に応じておしゃれを楽しんでいました。
櫛や化粧品容器といった生活用品から色彩豊かな胸飾りや腕輪など装飾品の数々を紹介いたします。
サトメレトの立像
Standing statue of Satmeret
古王国時代
第5王朝(前2494~2345年頃)
ギザ、ネフェルヘルヘンプタハ墓
石灰岩
高さ52.0cm、幅13.8cm、奥行14.0cm
▲ 彩色美しい女性像
サトメレトは、第4王朝のカフラー王およびメンカウラー王の死後の祭祀に関わる「葬祭神官」で「ウアブ神官」であったネフェルヘルエンプタハの妻であるが、彼女自身高貴な女性であり背柱の裏側に刻まれているように「王の知己」の称号を持っている。この像は、ネフェルヘルエンプタハの墓で他のいくつかの彫像とともに発見された。背板のついた台座に立つこの像は、首から胸にかけての装身具が鮮やかに彩色されているのが特徴となっている。肩ほどの長さの黒い鬘をつけ、巻き毛が細かい彫り込みで表現されている。
イタ王女の襟飾り
Collar and Counterpoise of Princess Ita
中王国時代
第12王朝 アメンエムハト2世の治世(前1911~1877年頃)
ダハシュール、アメンエムハト2世のピラミッド複合体、イタ王女の墓
銀、紅玉髄、ラピスラズリ、トルコ石
縦19.3cm、横24.6cm
▲ サトメレトの立像の襟飾りの模様にもそっくり
この幅広の襟飾りは、古代エジプト語で「ウセク」(「広い」の意)と呼ばれ、神々、王、貴族が身につけていたものである。装飾的な意味だけでなく守護的な意味もあった。この襟飾りは、アメンエムハト2世の娘であるイタ王女の墓から他の豪華な副葬品とともに発見された。紅玉髄のビーズを基調とし、その間にラピスラズリのビーズとトルコ石のビーズの列があしらわれている。両端には半円形の銀の金具が付けられ、現在は失われてしまっているが、別のビーズで写真の中央にある背中側に下ろした錘につながれていた。錘も半円形の銀の金具とビーズで装飾されている。
クヌムト王女の襟飾り
Wsekh-collar of Princess Khnumet
中王国時代
第12王朝 アメンエムハト2世の治世(前1911~1877年頃)
ダハシュール、アメンエムハト2世のピラミッド複合体、クヌムト王女の墓
ラピスラズリ、トルコ石、紅玉髄、ガーネット、長石、金
縦15.0cm、横33.0cm
▲ 職人の技術が素晴らしい
この襟飾りは、アメンエムハト2世の娘、クヌムト王女のミイラが身につけていたもので、発見当時にはばらばらに散乱していたが発見したフランスの考古学者ドモルガンによって復元された。一番上の列は真ん中に近づくにつれて直径が大きくなる球形の黄金製ビーズがあしらわれている。その下には黄金のビーズ連で仕切られた6つの列が並んでいる。このうち4つの列は生命を表す「アンク」、安定を表す「ジェド」、支配を表す「ウアス」の3つのヒエログリフが交互に並べられている。これらは下の列にいくにつれて、大きくなっている。両端のハヤブサの頭は、象嵌細工で細部が入念に表現されており、強く印象付けられている。
古代エジプトの来世観をテーマにします。古代エジプト人は現世と来世をどのように考えていたのでしょうか。
この章では、様々な墓や埋葬から古代エジプトの来世観に迫っていきます。
ナクトのナオス
Naos of Nakht
中王国時代
第12王朝(前1985~1773年頃)
アビドス、北墓地
石灰岩
高さ37.5cm、幅25.0cm、奥行23.2cm
▲ 古代エジプトの祠
ナオスとは神や人物の彫像を納めた祠のことであり、この石製の祠の中にも元々人物の像が納められていたと考えられる。このナオスは「部屋の守衛」ナクトのもので、現在は失われているが正面には木製の観音扉が付いていたと考えられる。扉は玉縁のついた装飾と銘文の彫られた脇柱とまぐさで囲まれその上には軒蛇腹が施されている。そして軒蛇腹の上は後方へ緩やかに傾斜した古代エジプトの伝統的な祠の屋根の形をしている。このナオスは、冥界の神オシリスの聖地であるアビドスのオシリス神殿の北側の墓地から出土したもので、この場所はオシリス神の復活を祝う大祭の行列が通過した場所で、中王国時代にセノタフと呼ばれるアビドスへの参詣を記念した祠堂が多く造られた場所である。
イビのステラ
Stela of Ibi
中王国時代
第12王朝(前1985~1773年頃)
アビドス、北墓地
石灰岩
高さ48.5cm、幅42.3cm、厚さ7.0cm
▲ 古代エジプトの石碑
この蒲鉾状の上部をもつステラは、家令イビのステラで、構図は3段で構成されている。上段にはイビとその妻サトセンウセレトが供物卓の前に腰掛ける姿が描かれ、中段には彼の息子3人と娘が1人、そして妻の息子が左側に顔を向けて立ち、下段では右から彼女の息子、彼の娘、彼女息子、オシリス神の女神官が描かれている。夫婦にそれぞれ子供がいることから夫婦が再婚者であると思われる。このステラもアビドスの北墓地から出土した。
太陽の船の模型
Painted Wooden Solar Boat
中王国時代
第12王朝(前1985~1773年頃)
ディール・アル=ベルシャ、セピ2世とセピ3世の墓
木
高さ23.5cm、幅13.1cm、長さ74.7cm
▲ あの世へ行く船「太陽の船」
古代エジプト人は、毎日東の空から昇り、西に沈む太陽の運行を永遠の秩序ととらえ太陽神ラーを信仰していた。太陽神ラーが昼の現世の天空を航行する船を「マアンジェト」、夜の冥界の天空を航行する船を「メスケテト」と呼んでいた。ファラオは死後この太陽神ラーの船に乗り永遠の航行を続けると考えられていた。
この模型船は太陽神ラーの船を模型にしたもので、船員はいない。白色の端が先端部で、そのすぐ後ろにはヒエログリフで「シュウ」と読める羽が並んでいる。これは、シュウ神やマアト女神などの太陽神が頭につけるダチョウの羽である。その後ろにあるのが太陽神の棺、そして、天辺にハヤブサが乗った円筒とその後ろにある「シェメスウ」と呼ばれるナイフの包みが付いた笏の象徴は、それぞれ下エジプトで崇拝されたホルス神と上エジプトで崇拝されたホルス神の象徴である。一番後ろにある箱のようなものは、太陽神の内臓を入れたカノポス容器と考えられている。
アメンエムペルムウトの彩色木棺とミイラ・カバー
Coffin and mummy cover of Amenempermut
アメンエムペルムウトの彩色木棺(蓋)高さ35.5cm、幅56.8cm、長さ190.0cm
アメンエムペルムウトのミイラ・カバー 高さ13.0cm、幅42.0cm、長さ179.5cm
アメンエムペルムウトの彩色木棺(本体)高さ31.5cm、幅53cm、長さ192.0cm
第3中間期
第21王朝(前1069~945年頃)
テーベ西岸、ディール・アル=バフリー、バーブ・アル・ガスース、第2のミイラの隠し場
木、漆喰
▲ 死者の書が描かれた3000年前のミイラの棺
1891年にディール・アル=バハリのハトシェプスト女王葬祭殿の東側に位置する通称「第2のミイラの隠し場」と呼ばれる再埋葬墓から発見されたアメンエムペルムウトの木棺のうちの内側の棺とミイラ・カバーである。これらは、元々アメン・ラー神の神官であったパディアメンのために作られたものであるが、アメンエムペルムウトが自らのものとして再利用したものである。棺の名前の部分で元の名前が消されて色が塗られ、そこにアメンエムペルムウトの名前が記されたのがわかる。木棺の様式と装飾から、第3中間期第12王朝中頃のものとされている。この時代にはかつてのような豪壮な礼拝室をしつらえた墓を造営することはなくなり、木棺に墓の礼拝室の壁画の代わりとして様々な図像が描かれるようになった。例えば、木棺の本体の側面には天空、大気、大地からなる古代エジプトの宇宙観を表した図、最後の審判の心臓の計量の図、火炎地獄の図などの『死者の書』の挿絵が描かれている。また、木棺本体の底板には入念に描かれた羽根をつけた手を広げた西方の女神の図が描かれている。
ツタンカーメン王に並ぶ、3大黄金マスクの1つ
アメンエムオペト王の黄金のマスク
Golden Mask of King Amenemopet
第3中間期
第21王朝 アメンエムオペト王の治世(前993~984年頃)
タニス、プスセンネス1世王墓、アメンエムオペト王の埋葬室
金、カルトナージュ
高さ43.0cm、幅31.5cm、厚さ12.0cm
《アメンエムオペト王の黄金のマスク》はツタンカーメンに並ぶ3大黄金マスクの一つ。
フランスのエジプト学者ピエール・モンテは、1939年にデルタ地帯東部の遺跡タニスで第21王朝・第22王朝の王墓を発見した。盗掘を受けた墓もあったが、多くの副葬品が手付かずの状態で発見された。この時、プスセンネス1世、アメンエムオペト王、シェションク3世、ウェンジェバエンジェド将軍のミイラが黄金のマスクを顔に被せた状態でみつかり、ツタンカーメン王墓の発見に並ぶ考古学的発見であった。
この黄金のマスクは、プスセンネス1世王墓の、本来は王妃の埋葬室だった部屋に納められていたアメンエムオペト王のミイラに付けてあった。金の板を打ち出して作られており、額の中央にウラエウス・コブラを付けたネメス頭巾を象り、ビーズの幅広の襟飾りを付けた姿で表されている。眉と目、アイラインの部分は全てガラス象嵌。古代エジプト文明の衰退期にさしかかった第3中間期の工芸品だが、その技術の高さをうかがうことができる。